安倍元首相暗殺と統一教会 深層レポート《安倍のビデオ出演を口説いた勝共連合会長の激白》森健+本誌取材班
2発の銃声
救急車、救急車! お医者様、看護師の方お助けください! お医者様いらっしゃいませんかー!
振り絞るような声が飛び交うなか、時間だけが過ぎていく。
奈良市の大和西大寺駅北口。7月8日午前11時30分すぎに響いた2発の銃声は元首相の命を急速に奪いつつあった。
自民党奈良県連幹事長の荻田義雄は、元首相の右後方1.5メートルのところに立っていた。ボーン!という大きな音がして振り返ると、男がいた。男が手にしているのは報道の望遠カメラのように見えた。
「警備が取り押さえないのかなと思っていたら、安倍さんが後ろを向いた。そこで2発目のボーン!という音がして煙があたりを包んだ。慌てて安倍さんを見た。血は飛び散っていなかった。でも、喉のところに小さな穴が空いていた」
元首相は表情を変えぬまま、台から自分で片足を下ろそうとした。だが、そこで膝から崩れ堕ちた。
同じ場所にいた党青年局の櫻井大輔は、破裂音に驚いたと振り返る。
「最初は、マイクが暑さか何かで破裂したんかなと。煙も出ていた。そしたら風圧を感じた。続けて2発目。何がどうなっているんやろうと思って前を見たら、安倍さんがよろけておられるところでした……」
駆けつけた看護師が服をめくり、AEDを素早く装着した。だが「AED必要ありません」と自動音声が流れた。看護師は「足を上に上げて」とその場の人に頼むと、すぐに心臓マッサージに切り替えた。周囲では「安倍さん頑張って!」という声が響いていた。櫻井が言う。
「倒れた安倍さんを最初見たとき、何か喋ろうとされているように見えた。そこでふっと意識が消えたような……目は半分開いたまま意識が飛んでしまったようでした」
安倍は約1時間後には、現場から南に25キロほど離れた奈良県立医科大学附属病院まで運ばれたが、意識は戻らなかった。
ビデオ出演の大きな代償
憲政史上、歴代最長の在職期間を誇る元総理大臣安倍晋三が死去した。白昼、それも公衆の面前での銃撃。前代未聞の事態に誰もが言葉を失った。凶器は自作の散弾銃。放ったのは奈良市に住む41歳の無職山上徹也だった。
20年以上、統一教会に恨みを募らせてきた山上は、狙う相手を教会幹部から安倍に変えたと語った。そのきっかけは、安倍が出演したビデオ映像だった。
2021年9月12日、韓国ソウルに近い清平で行われた旧統一教会の関連団体UPF(天宙平和連合)等が主催のオンライン年次大会「THINK TANK 2022 希望前進大会」。この大会で、安倍はビデオメッセージを通じて、世界の会員に向ってこう語りかけていた。
〈今日に至るまでUPFと共に世界各地の紛争の解決、とりわけ朝鮮半島の平和的統一に向けて努力されてきた韓鶴子総裁をはじめ、皆様に敬意を表します〉
「新統一韓国」は教祖文鮮明以来、旧統一教会が掲げる悲願だった。
〈UPFの平和ビジョンにおいて家庭の価値を強調する点を高く評価いたします〉
安倍のビデオメッセージ
家庭を壊され、苦しめられてきた山上は、このビデオを見て「殺すしかないと思った」と供述している。
安倍は山上の思い込みで事件に巻き込まれたという見方がある。だが、本当に山上の思い込みに過ぎなかったのか。
山上徹也容疑者
(1)勝共連合会長が語った安倍家三代と統一教会
その日、渋谷は小ぶりの雨だった。東急百貨店本店にほど近い世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の渋谷家庭教会には、コロナ禍のなか朝から会員が集まってきていた。 朝10時から2階で行われる日曜礼拝。2021年10月17日の講師は、旧統一教会の政治団体「国際勝共連合」会長であり、UPF議長でもある梶栗正義だった。梶栗はほどよく場を和ませたあと本題に入った。1カ月ほど前に行われた安倍のビデオ出演の裏話だ。
翌2022年は文鮮明が死去して10周年にあたっていた。その日を迎える前に大きなイベントを開き、各国要人を招いて会員獲得につなげるというのが、総裁韓鶴子(文鮮明の3番目の妻)、そして世界本部長尹煐鎬の指示だったという。
「韓国国内に100万人の基盤を作らなくちゃいけない。(略)ここで本当に、うわ、こんな人が出てきた、これはさすがに韓国国民もインパクトを受ける、というような大きなサプライズが第7回希望前進大会で実現しなくちゃいけないって話なんです。(略)これね、世界本部がもう泡を飛ばしながら私たちに意味を語ってくるわけです。何度も電話会議が持たれました。私もUPFの議長の立場にいると本当にストレスフルなんですよ」
つまり日本のUPFトップを務める梶栗の立場としては、日本のVIPの出演を取り付けなくてはならなかったと言いたいのだろう。
梶栗正義・勝共連合会長
当初、梶栗は安倍以外の3人の首相経験者にアプローチしていた。
「そのうちお一人は玄関先まで行っている。これは、あのメタファーです。実際にその人の家の玄関まで行ったんじゃなくて、本当にOKギリギリまで行ったんです。(略、その元首相の)事務所から何を言われたかという。結局、あなたたち団体は、私どもの○○先生を団体の宣伝材料に使いたいだけでしょ。布教のために利用したいだけでしょと。(略)UPFと言ったって、そんなのは家庭連合のフロント組織でしょと。(略)
で、あるわが教団幹部にこんなこと言われたんだと言ったら、いや実際、その通りだしなとこう言うんですよ。(略)ええーっ。内部がそう思っているんです。内部は宣伝したいだけで、外部はそこに自分を利用されたくない。私はその間に立たされてね、どうしないといけないんですか。(略)これ、かなり私、きわどい話をしていますけど大丈夫ですか、みなさんは」
結局、3人の首相経験者は辞退。だが、梶栗は2021年春に安倍に対してひとつの手を打っていた。
「私はご本人(安倍)に『先生、世界でペンス前副大統領やポンペオ前国務長官、あるいはトランプさんが講演するとなったら、やっていただけないか』と。『ああ、それなら自分も出なくちゃいけない』。……という話をこの春にしていたんです」
この直後、梶栗は韓鶴子に手紙を書き、安倍とのあいだで「トランプ出演」が前提条件になっていると報告していた。
8月5日、世界本部長の尹は電話会議のあと、米国で前大統領トランプのビデオメッセージが決まったと梶栗に伝える。そして安倍の出演説得を指示した。梶栗は再度説得に動き、安倍事務所から「やりましょう」と返事がきたのは8月24日、ビデオ撮影は大会の5日ほど前の9月7日頃だったという。
得意満面の梶栗は、この説得成功の陰に「霊界の後押し」もあったとして幻覚体験まで語りだした。
「この信頼関係が一体どういう風にできたのかと。一朝一夕の話じゃないんですよ。(略、撮影が)終わりまして、玄関からお送りするときに、私は深々と頭を下げました。本当にありがとうございましたと。
ところがね、私の横に梶栗玄太郎と久保木修己(玄太郎は正義の父、2人とも統一教会会長、国際勝共連合会長を務めた故人=編集部注)とが一緒に頭を下げているんです。あ、いつの間にいたんだという感じで。そしたら、先方も深々と頭を下げているんです。その横に岸(信介)先生と安倍晋太郎先生がね、深々と頭を下げているんです。もう私は鳥肌もんだったんです。過去、現在、未来という時制が編み上げられた形で、奇跡的な瞬間は実現しました」
梶栗は安倍と会食した際、いくつかアルバムを持参したというエピソードを続けた。「アボニム(文鮮明)と岸先生」「安倍晋太郎先生と梶栗玄太郎」「安倍晋三と自分」のツーショット写真を安倍に見せて、「これは三代のお付き合い、三代の因縁である」と言ったところ、安倍はそのアルバムを持ち帰ったという。
そのうえで梶栗は、自分たちの選挙協力が安倍説得にあたって功を奏したことに触れた。
「この8年弱の政権下にあって、6度の国政選挙において私たちが示した誠意というのも、ちゃんと本人(安倍)が記憶していた。まぁ、こういう背景がございました。(略)私もね、歩いてて、今地面を歩いてんだか、霊界を歩いてんだか、よくわからない。何度もほっぺたつねるんですよ」
岸先生は右派の学生が好き
梶栗が語ったように、統一教会の歴史は岸家、安倍家を抜きにしては語れない。初代会長の久保木は著書『愛天 愛国 愛人』でこう書いている。
〈岸先生との出会いも、笹川(良一)先生と同じで開拓伝道がきっかけでした。60年代の中ごろ、太田郁恵(旧姓福井)さんが山口県に開拓伝道に行った時、「踊る宗教」の教祖に会ったのです。この教祖は、20年以上も前から岸先生のことを「岸は必ず総理大臣になる」と予言していました。そうしたら本当になってしまいました。そのころ、統一教会の本部は渋谷区南平台にあって、実は岸先生のお宅の隣でした〉
正式名称、世界基督教統一神霊協会が生まれたのは1954年。朝鮮戦争休戦協定が結ばれた翌年、文鮮明が伝道を開始した宗教だ。日本への宣教は1958年に密入国した崔奉春(日本名・西川勝)によって始められた。その伝道で最初期に仲間とともに入信したのが久保木だった。
久保木は1964年に宗教法人として認証されると日本の初代会長に就任する。統一教会は当初は町中での伝道の合間に廃品回収などをする若者の集団だったが、1964年11月、首相を退任して4年ほど経っていた岸の隣宅に本部を移転してきた。
〈南平台に移る前の統一教会は、どちらかと言うと近所の人からうさん臭く思われがちでしたが、そこに移ってからは様相が逆転しました。町内から愛される統一教会に変わっていたのです。そういうことも岸先生との関係を強くする要因であったと思います〉(前掲書)
当時、岸にも統一教会にも、互いに近寄るべき事情があった。
1964年、統一教会は宣教の対象を若者に絞り込み、全国大学連合原理研究会(原研、原理研)を設立。文鮮明の教説「原理解説(後に原理講論)」を使って、大学生を積極的に取り込んでいく活動を本格化させていた。この若者たちは、岸を厳しく批判する、当時主流の左派学生とは対極にあった。
現在南平台町会長の岩井田正博は、当時学生のデモ隊がよく岸邸に回って来ていたと振り返る。
「デモ隊は岸邸を過ぎて、また戻ってくるのを繰り返していた。南平台の道路は踏み荒らされ洗濯板みたいにデコボコに波打っていましたよ」
一方、統一教会の若者は従順だった。それに岸は好感をもった。この当時、南平台の本部に通っていた古参の旧統一教会幹部が振り返る。
「当時あそこは研修所でした。合宿していたら、『おい、騒がしいね』と岸先生が訪ねてこられた。こちらが活動について熱く語ったところ、えらい感動してくれて『それなら頑張れ』と声をかけてくれた。岸先生は右派の学生が好きでね。安保闘争の裏話などしてくれました」
この時点ではご近所のつきあい程度だった岸だが、その後、盟友の笹川良一との縁から統一教会との関係が深まっていく。
岸も福田も文鮮明を歓迎
1967年6月、山梨県の本栖湖畔で日韓両国の「反共首脳会談」が開かれた。日本側からは笹川や児玉誉士夫の代理人、韓国側からは文鮮明らが集まり、反共団体をつくることで合意。この合意に基づき、翌68年、笹川を名誉会長、統一教会の久保木を会長として政治団体・国際勝共連合が発足する。
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