クイズ「私は誰でしょう?」小さな大物
【ヒント】
年間手術件数は350超。上皇の心臓バイパス手術を執刀した心臓外科医は?
皆さん、分かりましたか? 答えは……
◆天野篤
あまの・あつし 1955年10月18日生まれ 順天堂大学医学部教授
「高2の頃、父が心臓弁膜症を患い、自分の手で助けたいと思ったのが心臓外科医としての出発点でした」
3浪の末、日大医学部へ。27歳の時、最初に臨床研修医として勤めた関東逓信病院で冠動脈バイパス手術のプロフェッショナルになることを決意。以来、修行できる場を求めて、ひたすら腕を磨いてきた。
2012年、天皇(当時)の心臓手術を執刀して一躍「時の人」に。
「他人からの評価はどんどん高くなっていったけれど、僕はもともと自己評価が低いんです。だから外科医として生き残れたと思います」
現在64歳。これからもメスを握り続けるという。
「ベトナムや中国の一部では、自分が30年前にやっていた手術が今も行われています。自分の原点に戻って、年に何か月かはアジアで手術するのも良いかな。外科医はキツイ仕事ですが、患者さんが日常生活に戻れる姿を見られるのはやっぱり感動的なんですよ」
埼玉県蓮田市に生まれる。祖母のタケさんに抱かれて。「父方が医者の家系で、子どもの頃から医師は身近な職業でした」
「この写真が象徴的ですが、人と群れるより1人でいるのが好きでした。だから、友だちは今も決して多くありません」
中学時代。「初恋は同級生のユミちゃん。モテモテで2人もライバルがいて、思いを告げましたがフラれました(笑)」
大学の学費を出してくれた叔父さんと。「当時の私大医学部は金やコネが成績より優先されていた。おかしいでしょう?」
「大学1年生の1年間だけスキー部でした。当時、スキーはお金のかかる趣味。膝を傷めたこともあって辞めました」
テニスを始めたのは大学2年生から。「『医学部』というより『硬式庭球部』に所属していたような医学生でしたね(笑)」
大学の実習仲間と。「我が家は決して裕福ではなかったので、いつか皆を抜き去ってやるぞという気概に満ちていました」(本人下段右)
父の2度目の手術後に撮った記念写真。「3年後、自分も立ち会った手術中のミスで父は帰らぬ人になってしまいました」
亀田総合病院(千葉県鴨川市)で研修医を。「最終日、皆が自分の心電図入りの寄せ書きをプレゼントしてくれました」
恩師の須磨久善医師と。「憧れの須磨先生のもとで3年間、最先端の手術を学び、手術数を増やす努力を重ねました」
天皇(当時)の御退院に際し。「術後、公務に邁進され、見事に令和の時代に繋いだ陛下の使命感に感銘を受けました」
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