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お布施を頂いても、ありがとうと言えない

お布施を頂いても、ありがとうと言えない
仏事にお布施はつきものです。そのお布施が、お寺の維持費になったり、光熱水費になったり、住職の給料になったりします。

つまりは、お寺の運営にとって大変重要なものが、お布施。

お布施というのは修行です。近年はお金で行うことが多いですが、自分の物と思い込んでいる財物を、捨てるかのようにして相手に渡すのがお布施。仏教の教えを説くこともお布施。相手は僧侶やお寺でなくても、誰でもいいのです。

この時に難しいのが、一切の見返りを求めてはいけないこと。ましてやお経料などという名の対価としてであってはなりません。お賽銭を賽銭箱に入れるとき、お願い事をしますよね。でもお願い事をしたら、お布施ではなくなるんです。

賽銭箱に、「喜捨箱」と書かれていることがあります。正太寺にもあるのですが、喜んで捨てる箱という意味です。その心持ちでお賽銭を入れる。その時、自分の捨てるものを仏さまに差し上げているのに、それでお願い事をしたらおかしくないですか?

人は欲のある生き物です。欲を無くそうと思っても無くなるものではありません。だからこそ常々から、欲にとらわれないように意識をし続ける必要があるのですが、そのための修行の代表的なものが、お布施なのです。

そのお布施を直接手渡しでいただくケースが多いのですが、その時に、僧侶は本来ありがとうと言えません。お布施に対してありがとうと言ってしまったら、相手に見返りを与えてしまったことになります。繰り返すうちに、ありがとうと言ってもらうためのお布施になってしまうかもしれません。せっかく檀家さんや信者さんがお布施の修行をしているのに、それを僧侶がぶち壊してしまうことになります。

とはいえ心情的にはお礼が言いたい。ですので、私はお布施をわざわざ袋に入れてくれたことに対してありがとうと言い、お布施そのものについては、お寺に入れるようにお預かりをいたします、と返しています。でも、これでもやはり、お布施に対してありがとうと言っているように聞こえてしまいますよね。

施財の偈という、お布施したかたの修行がよりはかどるように祈る言葉があるので、それをそのままお唱えしながらいただくか、口語訳してお唱えするか、どちらかかなぁ、と考えています。それを唱えることで、この微妙な気持ちが伝わるといいのですが。

財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満。
(ざいほうにせ くどくむりょう だんばらみつ ぐそくえんまん)

お布施の修行って、とても難しいです。だからこそ、僧侶がそれを受け取る時には、お布施をする人以上の覚悟が必要になります。また、お布施という修行について、もっともっと声を大きくして説明していかなきゃなりません。今は、全然足りてないです。

最後に、青山俊董老師の語るお布施についての法話をご紹介します。

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