歴史的経緯

無数に存在する。
それを伝えるには、人生は短すぎる。
でも、無為に生きるなら人生は長すぎる。

文面が長かろうと短かろうと、「中身があって初めて伝わる何か」に気づいて初めてその意味が伝わる。

そんな、ことを、思うに、至り。






ねえ、明日いきなりおらんようになったらどうする?
そんときは、そんときや。少なくとも、這ってでも生き延びる。「日の当たる坂道を自転車で駆っけ上……らず駆け降りて、真横に急ブレーキかまして落馬さながらの大怪我したとき」……みたいにな。

様々なことを、考えては答えを出し。考えては答えを出し。
最近は、そのようにして、人の道を生きることを心がけている。

人の道を外れて生きていると、外道の烙印を押される。そして、その人から失った信用は二度とは還らない。

万に一つ、それが還ってくるとすれば、この場合や。

ひとつは、赦しを得たとき。
もうひとつは、仲直りしたとき。
さらに言うなら、「『その人にとっての当たり前』がなんなのかを理解したとき。」
この3つのタイミングは。最低限、要ってくる。

しかし、それだけでは足りない。
実際には、「その人から、もう一度信用してもらえたとき」であり、そんな当たり前の話に気づいて初めて、ようやく次の段階へと進めるわけであり。それがいつになるかは誰にも分からん、その覚悟は、とうにできている。


逆に言えば、手の施しようのなくなった関係性は、その時点で一度綺麗さっぱりなくなっている。なくなったものは、そう簡単に手に入るものではなく。


それでも欲しいと臨むのであれば、確かに要求を突き付けるのも一手かもしれない。だが、その理由を説明できて初めてまともに取り合ってもらえるので、正しく説明できないのであれば、まだそのときではない。人の納得を引き出すには、信用が物を言う。そして、共通認識も物を言う。それでや。

「そんなこと当たり前のことだろう、一介の一般人が何を言うか。」と思われるかもしれないが。

しかし、この世に生きる者は総じて、すべからく何らかの肩書きを持つ。それゆえ、安易に他者の意見を封殺し、安易な理由で完封勝利を図ろうとするのであれば、自らの持つその肩書きを理由に、他者からの攻撃を受けることになる。一例を挙げるなら、「お前風情が何を言うか。」やとかや。

人の忠告へ素直に耳を傾けるのは難しい。
そもそも、何を以て忠告とするかのその認識にさえ、齟齬が発生しうる。
そんな中で、周囲と共存共栄を図るには、多様性を広く認めることが重要であると考える。

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