「ペットを飼う」という人間のエゴについて

2024/1/1能登半島地震において、被災された全ての方の生活が一刻も早く良くなることを祈ると共に、失われた命に哀悼の意を表明します。

自分が暮らしている新潟市においても震度5強の地震に襲われ、堤防を越えることがなかったためこちらの被害こそなかったものの津波警報が発令、観測されました。
2004年の中越地震、2007年の中越沖地震、2011年の東日本大震災及び長野県北部地震…と結構な回数地元でも震度5クラスの地震には見舞われていますが、今回が自分の経験上一番「これはまずいやつだ」と直感する地震だったと思います。
実際の所、一時的に水道の水が使えなくなったり、風呂のタイルにヒビが入ったり、と被害が0とは行きませんでした。今は震災前と同じ生活を送っています。


さて、我が家族には猫がいます。彼女は人見知りで、家族以外の人間にはまず顔を見せません。チャイムが鳴れば飛んでどこかに隠れ、動物病院に連れていこうとカゴを取り出しただけでその先起こることを察してこの世の終わりのような悲鳴をあげる娘です。

そんな彼女にとって、今回が初めての大きな地震でした。
怪我こそありませんでしたが、地震にびっくりしたのか、人の手の届かない所に隠れてしまいました。
揺れがおさまり、被害状況を確認する中で発令された津波警報。
指定された避難所は歩いて向かうには遠く、日本海側で津波が起こればまず避難する前に津波が来るので家の2階に大事なものを上げて祈るしかない、と事前に家族会議で決めていたため、その通りに自分は動きました。
ここで問題が。彼女が隠れた場所は1階の、最も河川に近い窓のすぐ側だったのです。
持てる手段を総動員して引き付けようとしましたが、まるで反応なし。
最終的に力ずくで彼女をそこから引き剥がし、2階にあるケージに閉じ込めましたが、
その時点で津波は既に観測されていました。結果として大事には至らなかったものの、彼女は三が日の間はいつもの調子に戻らず、家族から離れた所にいました。よっぽど人間が怖くなったのだと思います。

もしも津波が堤防を越えて来ていたなら。自分は彼女を見捨てて2階に逃げたのか?それとも一緒に津波に飲まれたか?
極限の状況下で、家族を見捨てるか否かという選択を迫られ、地震から1週間になろうとしている今も、答えを出せず悶々としています。

ペットを飼うということはその一生に責任をもつことである
誰もが一度は耳にしたことのあるであろう、飼い主の心構えの最たるものですが、
今回の一件を受けて、その意味を考えさせられます。
自分にとってペットは大事な家族の一員ですが、
それ以前にペットを飼うことはそのペットに生活を支配される、言い換えればペットの奴隷になるようなものだと考えています。
ペットの要求には原則何があっても従うこと。ペットが嫌がることはしないこと。もしも、どうしてもしなきゃいけない時は決してペットを怖がらせないこと。

今回、この最後の「怖がらせないこと」を守れませんでした。
命がかかった状況下でそんなことを言ってもいられないのは承知の上で、その行動が原因のストレスで体調を崩したらそこからまたどんどんとストレスをペットに課してしまうことになる。
「怖い」「動きたくない」と隠れる猫に対し、「助けたい」「安全な場所に移動させたい」と人間側のエゴで猫のテリトリーを侵し、猫に怖い思いをさせてしまったことへの後悔と、猫の意思を尊重して結果「家族を殺す」選択をしていたかもしれない恐怖。
今回の地震は今まで経験したことのない感情を残していきました。
きっと忘れることはないと思います。


1/2の羽田空港の事故で、機内に預けられていたペット達を助けられなかったことについてネット上で物議をかもしていますが、自分から言わせればそもそもペットを旅行に同伴させることがその過程で多大なストレスを与えるものであり、論外だと思っています。そのエゴを通す前に、自分が不在でもペットの面倒を見れる体制を作れなかったのか?そもそもその旅行はペットよりも大事なのか?「責任」を他者に委ねることがそもそも飼い主の資格を放棄するものだと思わざるを得ません。

2024年、文字通り波乱万丈の幕開けとなりました。少しでも良い一年になることを祈ると共に、ペットという人ならざる家族との向き合い方を改めて考えようと思います。


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