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感謝

祖父が死んで1ヶ月が経とうとしている。
こうやって文字を打っているだけで涙が溢れてくるから、まだ心の整理ができていないのだろう。

自分自身を振り返り、向き合える場所が、このnoteになるといいなと思い、残してみる。

私は地元である田舎を離れて東京に住んでいたけれど、2023年の春から、結婚を機にUターンで地元に帰ることになっていた。
そのことを祖父には、2022年の梅雨時頃、電話で報告していて、結婚することも、帰ってくることも、喜んでくれていた。
後から聞いた話だが、その時には既にかなり認知症が進行していたそうだ。私は仕事が終わりの電車に乗る前で初台駅のホームにいて、それはそれは聞こえにくかったと思うが、こちらが大きな声で話せば何も問題ない、いつもの優しい祖父だった。
もう少し落ち着いた場所で電話したらどうかと今になって思うが、その時は、とにかく早く報告したかったことを覚えている。

それから祖父は自分で歩くことも難しくなり車椅子生活になった。
祖母と叔母夫婦が自宅で介護していたが、働きながらのそれは安易に想像出来ない程大変だったろう。祖父は病院へ入院し、それから施設に入った。
おそらく東京にいる私(たち)に、あまり心配させまいと、祖父の状態は断片的にしか話されていなかったように思う。
もちろんその断片も、安心できるものではなかったかもしれないけれど、私は祖父が死ぬなんて思えなかった。
命あるものいつかは尽きる。それは重々承知だ。ただ私が帰ればいつもそこで待っていてくれたように、また会えると思っていた。

よって、帰ったら”祖父に(と)したい事”、”どんなサポートが出来るか”ばかりを考えていた私に、祖父の訃報は届いた。あと2週間で田舎に帰るというタイミングだった。
あの電話が、祖父との最後の会話になってしまった。

新型コロナウイルスの影響がまだ大きく、見舞いにも行けず、たまの面会も壁越しに電話で繋げて話しをするしかなかったそうだ。85歳の祖父はリモートでの面会なんて分かっていなかっただろう。
全ての物事には理由があるというが、ここにどんな理由があったのか私はまだ見出せずにいる。でも考えることを放棄したくはない。

祖父の命の灯は尽き、私たちの新生活は始まった。
終わりと始まりを繰り返していくのも分かっている。死んだから辛いとか、別れが寂しいのではなく、もう祖父に会えないことが悲しい。

戦争経験者の祖父の85年の生涯、苦労も多かったと思う。
ただ、最後は、幸せだったと思って眠ってくれたと信じてる。
もう会うことは出来ないけど、私の頭の中では姿も浮かぶし声も聞こえる。まだ涙は出てしまうけど、前を向いて。
大切なことを教えてくれてありがとう。

引っ越したてのまだガランとした薄明るいリビングより

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