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かむなびの郷のお話とおふでさき第三号のお気に入りを選ぶ

かむなびの郷で聞いたお話

あなたは、もしかしたら
背負わなくてもいい荷物を背負っていませんか?

でも、その荷物は前世で自分が仕込んだ荷物かもしれません。

今の人生で突然、思いもよらない病気になったり事情が起こったりしていませんか?

それは辛く苦しいこともあるかもしれませが、実は神様からの『GIFTギフト』
神様と自分自身が決めた神様からの頂き物なんです。
病気になることも不幸になることもギフト。

そして、そのギフトは『使命』を持っています。前生のいんねんという、、、。
その前生のいんねんを前向きに対処すると、あなたのいんねんは終わりを告げます。

あなたのいんねんを子どもや孫に引き継がせることのないように今世で今の苦しみを全て喜びに変えて出直す(死ぬ)と、そのいんねんは終わります。

あなたの背負っている荷物は神様からのギフト
ギフトの使命が終われば、その荷物はなくなります。

陽気に生きてください。

すべての子どもたちは、お母さんをたすけるために、この世にやってきました。
お父さんは、その大切なお母さんのことを大好きな人です。

どんな毒親でも子どもたちは、その親を選んでやってきました。

お空の上から、この世を見て
あのおうちは楽しそうだな~
お父さんとお母さんが仲良しで笑いが絶えないおうち、あそこにしよう!!
ってね☺️

だから喧嘩がたえないお父さんとお母さんのところには子どもたちはなかなか来てくれません。

あなたは、今どんな人生を生きていますか?
感謝して陽気に楽しんでいますか?


おふでさき 第三号のお話

まえおき
おふでさき 第三号 前半は
・胸の掃除と真の柱のお話
➡︎   一れつすまして かんろだい(第三節)
・元の理を具体的に解き始める
➡︎  ちょっとはなし~(第二節)
・真実に人をたすける心になるお話
➡︎  あきしをはろうて~(第一節)

おふでさき第三号は胸のそうじ、心の成人について、かしもの・かりものの教理に言及される。そして、人をたすける心こそが親神の思いに適う心である。神一条で、勇んでつとめる陽気づとめこそが、世の治まりの根本。

おふでさき  第三号 

「はしら」を入れる話

人の心を水にたとえて
水が澄む
水が濁る
濁りの元は泥にたとえられる心のほこりの欲

「しんのはしら」は、かんろだいと真柱様

しんのはしらをはやくいれたい

かんろだいを早く据えたい
真柱様を早く迎え入れたい

にごりの水でところわからん

「にごりの水」人々の心が濁っていて、かんろだいを据えることができない。据えるべき場所が分からない。真柱様を迎え入れるにふさわしい状態になっていない。

このはなしすみやかさとりついたなら

「すみやかさとり」澄みやか、すっきりと悟りがついたなら、、、。
泥水と泥と上澄みに分かれてくる、これが分かるということの言葉の背景にある物理現象。
澄む、と分かるが分かりやすくなる。

はしらさいしいかりいれた事ならば
このよたしかにをさまりがつく

かんろだいさえしっかりと据えたならば、この世が確かに治まる。あるべき姿に、親神様の思召通りの姿になっていく。

このはなしさとりばかりであるほどに
これさとりたらしよこだめしや

この話は、「さとりばかり」
理屈ではなく、私たちの悟りの問題。
それぞれの悟りに掛かっている。
この話の真意を悟ることができたならば
親神様の言われることが験証される。

元初まりの話の端緒

にちゝに神のはなしがやまゝと
つかゑてあれどとくにとかれん

「神のはなし」、日々に聞かせてやりたい親神様の思いが山のように積もり、胸につかえているけれど、それを説いて聞かせたいと思っても説くことができない。

なにゝてもとかれん事はないけれど

心すましてきくものハない

何であれ、説けないことは、ないけれど、
誰も心を澄まして聞こうとする者がない。
心を澄まして聞かなければ、親神様の思召は、わかるものではない。

すみやかに心すましてきくならば
よろづのはなしみなときゝかす

「すみやか」→すっきり
すっきりと心を澄まして、親神様の話を聞くならば、「よろづのはなし」を皆説いて聞かせる。神様の話を聞く時には、いい加減な気持ちで、また濁った、ほこりにまみれた心で聞いたのでは、神意を悟ることができない、わからない。心を澄まして聞くことが大切。

このよふのたしかためしかかけてある
これにまちがいないとをもゑよ

「ためし」→験証。
親神様の話は、ただ話だけで終わるものではない。この世で確かに明かし立てる。
だから決して、この話に間違いはない。
ただ口先だけの話ではない。

このためしすみやかみゑた事ならば
いかなはなしもみなまことやで

「このためし」験証
これが、はっきりと、目に見える形で確認できたならば、「いかなはなし」親神様の説くどんな話も、皆真実であると納得できる。得心がいく。

なにもかもいかなはなしもとくほどに
なにをゆうてもうそとをもうな

どんなことも、あらゆる話を説いて聞かせる。親神様が何を言っても、決して嘘偽りなどと思ってはならない。親神様の話は全て、験証できる。明かし立てられる話。

めへにめん神のゆう事なす事わ
なにをするとも一寸にしれまい

「めへにめん」→目に見えん
目に見えない神の言うこと、親神様が教祖の口を通して仰っていること。その目に見えない神の言葉、する事、それらにはどんな意味があるのか、分からないだろう。

はやゝとみへるはなしであるほどに
これがたしかなしよこなるぞや

親神様の話というのは、早々に現実となって現れてくる。この現実に見えてきた姿が確かな証拠である。

これをみてなにをきいてもたのしめよ
いかなはなしもみなこのどふり

その事実、証拠を見て、親神様から、すなわち教祖からどんな話を聞いても、たとえそれが夢のような話であっても、やがて必ずその通りになると楽しみに思えよ。親神様がするどんな話も皆この道理、すなわち、必ず目に見える形で実現してくる楽しみな話である。

真実に人をたすける心

はやゝと神がしらしてやるほどに
いかな事でもしかときゝわけ

「はやゝ」→早々に
親神様が知らしてくださっている。
つまり、子どもの夜泣きを通して親神様が知らせてくださっている。だから、ただ子どもが泣いて困ったものと思うのではなく、「いかな事でも」どんなことでもしっかりとそこに親神様の思いを悟りとるように。

をやゝの心ちがいのないよふに
はやくしやんをするがやよいぞや

十五歳までの子どもは両親の心通りに守護されると教えられています。ですから子どもの身上に現れてきたことは、親に対するお知らせ。
子どもの夜泣きを通して、両親がよく思案をする。反省をする。両親の心づかいの間違いがないように、早く思案をするのがよい。

しんぢつに人をたすける心なら
神のくときハなにもないぞや

「しんぢつに人をたすける心」真実に人をたすける心であるなら、
「口説く」→繰り返し言うこと。
親神様が繰り返し諭す必要はない。
真実に人をたすける心、これは最も親神様の思召に適う心づかい。

それと対象的な次のお歌

めへゝにいまさいよくばよき事と
をもふ心ハみなちがうでな

「めへゝに」各自、勝手に。「いまさいよくば」目先のことだけ考えて、今さえ良ければいいんだといった刹那的な心づかい。
それは全て違う。間違っている。
自分さえ良ければ、今さえ良ければということは、言い換えれば、周囲が見えてない、将来を考えてないということ。自分だけでなく、自分以外の周りの人々、さらには今だけでなくて将来を考える。あるいは過去を考えるということがあれば、物の見方、受け止め方が自ずと変わってくる。考え方も変われば、することも変わってくる。そうなれば運命も変わっていく。それは結局、理に沿って思案すること。

てがけからいかなをふみちとふりても  
すゑのほそみちみゑてないから

「てがけ」→出かけ、出発時
出発時がいかに大きな道であっても、「すゑのほそみち」それが将来、細道に続いているということが見えてないから折れる。
それが、まさに「いまさいよくば」。
当初は大きな安楽な道に見えても、それをたどって行くと、やがて細い険しい苦しい道になっていくことがある。物事の先を見据えて思案することの大切さを仰っている。

にんけんハあざないものであるからに
すゑのみちすじさらにわからん

「あざない」というのは、浅はかということ。
頼りないというような意味。人間というものは、頼りない浅はかなものであるから、将来の道筋が全く分からない。

いまの事なにもゆうでハないほどに
さきのをふくハんみちがみへるで

今現在がどれほど苦しくても、不如意であっても、嘆いたり、ぐちを言ったりせずに、「をふくハんみち」人々の行き交う広々とした道、先ではそうした広い頼もしい道に出る。

いまのみちいかなみちでもなけくなよ
さきのほんみちたのしゆでいよ

今の道中が、どれほど困難な道であっても嘆いてはならない。先で見えてくる「ほんみち」本当の道、安心して通れる確かな道に続いているから、それを楽しみに通るよう。今が少々苦しくても、その道が天理に沿ってさえいれば、必ずやがては本道に出る。

しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
なにゆハいでもしかとうけとる

「しんぢつにたすけ一ぢよの心」ひたすら人をたすけたい、心底からそうした心でいるならば、口先であれこれ言わずとも、親神がしっかりと受け取って守護する。
※教祖百年祭の時の『諭達第三号』に、ただ一首引用されたお歌である。
「めへゝにいまさいよくばよき事」という心と正反対の心。

口さきのついしよはかりハいらんもの
しんの心にまことあるなら

「なにゆハいでもしかとうけとる」何も言わなくても、親神様はその真実を受け取ると言われているのに重ねて「口さきのついしよ」は無用。心にもないお上手を言ったり媚びたりする必要はない。「しんの心にまこと」心底から誠の心でありさえすればよい。

この世は神のからだ

わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる

「むねのうちよりしやんせよ」親神様の言うたすけの何たるかが分かるように心の底から思案をするように。この道のたすけの神髄は、「人たすけたらわがみたすかる」ということ。
人たすけたら我が身たすかるという救済観は、天理教のおたすけの真骨頂。拝んだり、祈祷したり、伺いを立てたりしてたすかる道ではなく、万事の理合いを説き聞かせるから、神一条になって、親神様の真意が分かるよう心の底から思案するように。

神が箒となって掃除

だんゝとをふくよせたるこのたちき
よふぼくになるものハないぞや

「だんゝとをふくよせたるこのたちき」立ち木というのは立っている木なので、そのままでは役に立たない。立ち木を使えるようにするためには、手入れをし、切り出し、製材の後、用途に応じて加工し、仕上げていかなくてはなりません。大勢寄せてある立ち木、人々は、そのままでは、まだよふぼくになる、すなわち世界のふしんに役に立つという者はいない。

いかなきもをふくよせてハあるけれど
いがみかゝ"みハこれわかなハん

どんな木も多く寄せてあるけれど、ゆがんだり、「かがむ」とは折れ曲がっている状態、ゆがんだり折れ曲がったりしているようでは、とても役に立たない。そうした者でも、親神様の話を聞き、心を入れ替えることによって、お役に立てる人材になっていく。

いちれつに神がそふちをするならば
心いさんてよふきつくめや

「よふきつくめ」は何もかもが陽気ということ。誰もが、何を見ても何を聞いても、嬉しいありがたいと、いつもどこでも陽気なのが陽気づくめ。

なにもかも神がひきうけするからハ
どんな事でもぢうよぢさを

何もかも皆、親神様が引き受けるからには、どんなことについても自由自在の働きをあらわす。

このたびハうちをふさめるしんばしら
はやくいれたい水をすまして

真柱様をお屋敷へ迎え入れるに際して、そのお立場を「うちをふさめるしんばしら」
教内を治める。
その真柱様を早く迎え入れたい。
「水をすまして」前提として人々の心を澄ます胸のそうじを求めておられる。

神の話が実現する時節

今までもしりてはなしてはなしとも
といてあれどもなんの事やら

今までからも、親神様は承知しているから
「はなしてはなしとも」繰り返し話をし、説いているけれども、何のことやら分かっていない。

これまでハいかなはなしをといたとて
ひがきたらんでみへてないぞや

これまではどんな話を親神様が説いても、日が、その時がまだ来ていないので、現実には見えていない。実現していない。

しやんせよなんぼすんだる水やとて
とろをいれたらにごる事なり

どんなに澄んだ水であっても泥を入れたら濁る。澄んだ心の者であっても、泥というのは欲で、欲が混じると濁ってしまう。濁ってしまうと親神様の思召が分からない。ご守護を十分頂けない。

にごり水はやくすまさん事にてわ
しんのはしらのいれよふがない

その泥の混じった濁り水。欲というのは、一言で言えば、自分中心の心づかい。銘々が自分中心の心づかいでいることが濁り水にしている。それを澄まさなければ「しんのはしら」かんろだいの入れようがない。

この世をはじめた神の真実

いまゝでもしんがくこふきあるけれど
もとをしりたるものハないぞや

「しんがく」→心学、農民や町人などの庶民の道徳を解いた教え。
「こふき」→古いことを記した書き物。
教祖は「こふきを作れ」と仰った。「口記」
ここで言う、こふきは世間の古記。
これまでにも庶民の道徳を説く心学や古いことを記した書き物があるけれども、元、根本を知っている者はいない。

そのはづやどろうみなかのみちすがら
しりたるものハないはずの事

文字が現れるのは紀元前四千年、五千年ぐらい。紀元前五千年頃となると、とても書き物とは呼べない断片的なもの。
それに対して「どろうみなかのみちすがら」は、泥海の中から人間をお創めになった九億九万年以上前からと気が遠くなるような長い道中のことだから、それを知っている者はいるはずがない。

なにもかもない事ばかりとくけれど
これにまちごた事ハないぞや

どれもこれも、今まで聞いたこともないばかり説くけれども、それに決して間違いはない。
泥海中の道すがらをはじめとして、誰も知らない、聞いたことがない話。だから、容易に信じることはできにいであろうが、これが真実。
元の神ならではの、元を教えてたすけるというのが、天理教の教えの特徴。

からのここ大事(๑•̀ㅂ•́)و✧

正月二十六日を待つ

十一に九がなくなりてしんわすれ

正月廿六日をまつ

このあいだしんもつきくるよくハすれ

にんぢうそろふてつとめこしらゑ

「十一に九」で明治二十年を表している。
九は、教祖の九十歳というお年、また、十一は、たまへ様のお年。
そして、十一と九を合わせて二十、明治二十年、正月二十六日(明治二十年陰暦正月二十六日を待つということ)
「九がなくなりてしんわすれ」の九とは何か?
「しん」は何か? 九は、数字の九と苦。
「しん」は、つらいという意味の「辛」。

明治二十年の『おさしづ』

さあゝ正月二十六日と筆に付けて置いて、始め掛けた理を見よ。

(明治22・3・10)

「このあいだしんもつきくる」というのは、その明治二十年陰暦正月二十六日までの間に、「しん」、これはかんろだい、核心、真柱様。
「よくハすれ」は、人々の心が澄んでくる心の成人の姿。「にんぢうそろふて」つとめ人衆が揃って、「つとめこしらゑ」つとめの準備をするということ。

親神様は明治二十年陰暦正月二十六日を待っている。その間にぢばも定まり、かんろだいの建設に着手する。また、真柱様を屋敷内に迎え入れる。さらに、人々も心の成人を遂げ、つとめの人衆が揃って、つとめ勤修の用意をする。

教祖は、たすけ一条の道の次第の一部始終を整えられ、つとめ完成の目途が立った時、それが明治二十年の陰暦正月二十六日。
そして、現身をおかしになられた今は、ご存命の理をもってお働き下されている。

にちゝに神の心のせきこみハ

ぢうよじざいをはやくみせたい

親神様は自由自在の働きを早く見せてやりたいと、日々急き込んでいる。

これからハにんぢうそろをてつとめする

これでたしかににほんをさまる

これからは、つとめ人衆が揃ってつとめをする。このつとめによって確かににほんが治まる。あるべき姿になる。

しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに

なにもこわみハさらにないぞや

親神様はどこまでもたすけ一条、ひたすら、子どもをたすけてやりたい一条の親心であるから、決して怖い、恐ろしいというようなことはない。

神と上の対比、対峠

これからハ神の心と上たるの

心と心のひきやハせする

引き合わせには、人人とを引き合わせするという意味と
例えば、『おふでさき』の中では、
「きたるならわがみさハりとひきやハせをなじ事ならはやくそふぢふ」のように、照らし合わせるという意味と、二通りあります。
親神様の思召と上に立つ者の心を引き比べ、将来的に引き合せるということ。

このはなし一寸の事やとをもうなよ

神がしんぢつみかねたるゆへ

このようなことを親神様が言うのは、ちょっとのこと、容易なことではない。
現状を見かねたがゆえのこと。
上に立つ者の心があまりにも親神様の思召とかけ離れ、恣にしているを見かねたからだ。

これからハ神のちからと上たるの

ちからくらべをするとをもへよ

親神様の力と上に立つ者の力との力比べをする。力比べは相手の者にも見ている者にも、神の力の偉大さをはっきりと分からせるもの。

いかほどのごふてきあらばだしてみよ


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