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おふでさき 勉強会用② 第二号 25~36

第二号 25~36

2号 25~36

25~26

高い山の静かな池に湧き出た澄んだ水であるけれど、流れ出る出端は勢いよく土を流すために濁って、ごもく(芥ごみ)まじりである。人間の心も元々は奇麗なものであるから、今は濁っていてもだんだんと心静めて思案するとき、澄んだ水のように奇麗に変わって来る。

心がすむことが話題、「山」とは人間の社会

27~30

山の中の水(せかいの人々の心)の中に入り込んで、どんな水でも元のように澄ましてしまう。心を澄ました後は日々に心を尽くし胸を治めて通るならば、末は頼もしい道がある。これからは、高山の池(人の心)に飛び入り、どんなごもくも掃除する。ごもくさえすっきり出してしまえば、あとの水は澄んでしまう。

心を澄ます二つのたとえ 
区別して用いられている
山中と高山
高山は高い所で、布教伝道の対象
山中とは? 山は人間社会のたとえ
高山とは? 社会の上層にある者

31~34

これからはからとにほんの話しをする。何を言おうとしているのかは、直ぐには分からないであろう。とうじん(からの者)がにほんのぢ(地)に入り込んでままに(自由に)するのが神のりっぷくの元である。それ故だんだんとにほんをたすける段取りをして、とうじんを神のままにする。この先はその段取りとして、からとにほんをわけて布教伝道して行く。これがわかったら世界が治まる。

「からとにほん」のたとえは何を指しているのか?
からは教えのまだ行きわたらない所、神の話がわからぬ所
にほんは教えが行きわたっている所、神の話がわかる所

35~36

今までは上たる者の心がわからない、真実がわかってないので、またその上に従うせかいの者も教祖のしていることを世界並のものと思っていた。これからは神が体内に入り込んでそのような心をすっきりとわけて、真実をわからせてみせる。

31~36までは心をわける話しをされている。
《すむ・すます》と《わかる・わける》
そして本当の心がすみ・むねがわかる
そしていさむ

※25からは布教伝道がどんな展開をするのかの例をあげ、神の方には確かなことが見えてあるということを、ある意味で楽しみの話として述べられている。

25~36の箇所ででてくる
高山・からとにほん・上
布教の場面でのお話

《高山》
高山の掃除ができれば、神意がずっと谷底へまで流れていくようになる。

おさしづ

「どっからどんな者来ても守護するから、何も恐れるやない。こちらから先に言葉を掛けにゃならん。高山に十分にをい掛かりてある」
(明治26・3・19)

《からとにほんをわける》
ぢば・かんろだいを中心とした親神の世界におけるそれぞれの位置を明確にする、わからせて行くという意味。
世界たすけという枠組みのなかで、何が「から」(枝葉)で、何が「にほん」(根)でえるかということを、しっかりと認識するということ。そこから、この世が治まってくる。
「わける」ことは重要。ものごとは分けることによって、はっきりとしてくる。分かってくる。その分け方によって、見えてくる世界が異なってくる。これが認識の違いとなる。

《上》
上とは?
上とは何か?
おふでさきでは、ほぼ高山と同義語的につかわれている。あえていうならば、高山は、社会的な階層を示すことばで、上は身分的な場面からの語。どちらも社会を統治する者という意味が強い。

おふでさきの
”神が体内へ入り込む”と表現される場合、誰の体内であるかによって、その意味は異なる。
①おやさまに入り込む
おやさまから親神の思召が伝えられること。啓示。
②よふぼく(にほんの者)に入り込む
ようぼくの働くところ、神のはたらきをあらわして下さるという意味。啓示を意味するものではない。
③とふぢんに入り込む
病としてあらわれてくる。

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