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たましいの物語 『元の理』

”この世の元初(もとはじり)は、どろ海であつた。月日親神(つきひおやがみ)は、この混沌たる様を味気なく思召(おぼしめし)、人間を造(つくり)、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
 そこで、どろ海中を見澄みすまされると、沢山のどぢよ(ドジョウ)の中に、(うを)魚と(み)巳とが混つている。夫婦の雛型(ひながた)にしようと、先(まず)これを引き寄せ、その一(ひとすじ)心(ごころ)なるを見澄みすました上、最初に産みおろす子数(こかず)の年限(ねんげん)が経つたなら、宿やどし込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝(はい)をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。
続いて、乾(いぬい)の方からしやち(シャチ)を、巽(たつみ)の方から(かめ)亀を呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味(こころあじわい)を試し、その性(しょう)を見定めて、これ等を男一(おとこいち)の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一(おんないち)の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々(それぞれ)を(うを)魚と(み)巳とに仕込み、男、女の雛型(ひながた)と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこと とは、この男雛型(おとこひながた)・種(たね)、女雛型(おんなひながた)・苗代(なわしろ)の理りに授けられた神名(かみな)であり、月よみのみこと くにさづちのみこと とは、夫々(それぞれ)、この道具の理に授けられた神名である。
 更に、東の方からうなぎを、坤(ひつじさる)の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮(うしとら)の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにもまた、承知をさせて貰い受け、食べてその心味(こころあじわい)を試された。そして夫々(それぞれ)、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこと との神名を授けられた。
 かくて、雛型(ひながた)と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなつた。そこで先ず、親神(おやがみ)は、どろ海中のどぢよ(ドジョウ)を皆食べて、その心根(こころね)を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様(つきさま)は、いざなぎのみこと の体内に、日様(ひさま)は、いざなみのみこと の体内に入り込んで、人間創造(にんげんそうぞう)の守護を教え、三日三夜(みっかみよさ)の間に、九億九万九千九百九十九人の子数(こかず)を、いざなみのみこと の胎内(たいない)に宿し込まれた。それから、いざなみのみこと は、その場所に三年三月(さんねんみつき)留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。
 最初に産みおろされたものは、一様(いちよう)に五分(ごぶ)であつたが、五分五分(ごぶごぶ)と成人して、九十九年経つて三寸(さんずん)になつた時、皆出直してしまい、父親なる いざなぎのみこと も、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみこと は、更に元もとの子数を宿し込み、十月(とつき)経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分(ごぶ)から生れ、九十九年経つて三寸五分(さんずんごぶ)まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分(ごぶ)から生れ、九十九年経つて四寸(よんすん)まで成人した。その時、母親なる いざなみのみこと は、「これまでに成人すれば、いずれ五尺(ごしゃく)の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕しとうて残らず出直してしもうた。
 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度(はっせんやたび)の生うまれ更かわりを経て、又もや皆出直し、最後に、(めざる)雌猿が一匹だけ残つた。この胎はらに、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分(ごぶ)から生れ、五分五分(ごぶごぶ)と成人して八寸(はっすん)になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低(たかひく)が出来かけ、一尺八寸(いっしゃくはっすん)に成人した時、海山(うみやま)も天地(てんち)も日月(じつげつ)も、漸(ようやく)区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸(いっしゃくはっすん)から三尺(さんじゃく)になるまでは、一胎(ひとはら)に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺(さんじゃく)に成人した時、ものを言い始め、一胎(ひとはら)に一人ずつ生れるようになつた。次ついで、五尺(ごしゃく)になつた時、海山(うみやま)も天地(てんち)も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。
 この間、九億九万年は水中(すいちゅう)の住居(すまい)、六千年は智慧(ちえ)の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。”


『元の理』「元初まり」のお話は
・単なる人間世界創造のお話ではない。
・これからも永遠に続く神と人間との関わりの物語
・魂をゆさぶる働きをするようなお話


「この世の元初りはどろ海であった」
「陽気ぐらしをするのを見て共に楽しもうと」

どろ海が示すもの、それは陽気ぐらしをする以前の心の状態。真っ暗な状態。
陽気ぐらしへの再創造を急きこまれる。
「よくにきりないどろみずや こころすみきれごくらくや」『みかぐらうた』
欲にきりない泥水、これを極楽、陽気ぐらしにきりかえる方法は「心澄みきる」ことです。


「九億九万九千九百九十九人の子数の宿しこみ」

「九十九」が三つ重ねられている。
九十九の意味が強められ、限界一杯ギリギリ一杯成長して、あと一つで百になる。
『元の理』のお話でも最初の子数の生み下ろし、出直しという話が年数として三度繰り返されている。
また九十九まではどんなに成人してきても、子供として成人してきた年限であり、親を知らない間の成長である。あと一つが、元の親である。
その一つが加わることで十全、初めて完全なものになる。元の親を知って、その親の思いにそった生き方をすることによって、初めて人間は完成する。


「水中の住居」の期間

「九億九万年は水中の住い、六千年は智恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込み」

「水中の住い」とは、親の懐にいだかれて、全く無意識のまま、ごく自然のまま人間が生かされていた年限。その後、自己意識が生じ、自分でいろいろな事を考え出し、創り出して文化を発達させ、発展していきます。
十万年を一年というスケールで考えると「智恵の仕込み」を受け、「文字の仕込み」を受け始めたのは、一年で言えば大晦日、十二月三十一日の除夜の鐘が鳴り出している午後十一時五十五分ぐらいということになります。
「水中の住居」という自己意識以前の人間のあり方は、三六四日と二十三時間五十五分もある一方、智恵を働かせて動き出したのは最後の数分くらいにすぎない。人間のあり方、生き方が描き出されている。


「三度の出直し」

いざなぎのみことの体内に月様が入り込み、いざなみのみことの体内に日様が入り込み、人間創造の守護を教え、三日三夜に元の子数を宿し込んだ。最初に生みおろされたものは一様に五分であったが、五分五分と成人し九十九年経って三寸になった時、皆出直し、父なるいざなぎのみことも身を隠した。それから同じように、いざなみのみことは元の子数を宿しこみ、十月経ってこれを生みおろした。これもまた五分から生まれ五分五分と成人して、九十九年経って三寸五分となった時、やはり皆出直した。そして三度目の宿し込みが行なわれ、同じように九十九年、五分五分と成人して四寸になったとき、母なるいざなみのみことは、「これまでに成人すればいずれ五尺の人間になるであろう」と、にっこり笑って身を隠した。
このお話は、人間はいかに成人すべきか、どういう成人の道すじがあるかということが、物語られています。


人間の成人には二通りある

ひとつは、「五分五分」と成人する仕方、
ボチボチと成人する仕方。
九十九年経って三寸までしか成人しなかったということは遅々たる歩みです。
ある意味で我々の日常生活によく見られることです。
もつひとつは、三寸まで来た時に、もうひとつの五分がどうしても越せない、そこで一辺全部出直して初めからもう一度やり直す─0からの再出発─
三寸から三寸五分、三寸五分から四寸への間は、それまでの「五分五分」と同じ五分ですが、その五分は、今までのような五分五分というような日常的な成人の仕方では越せないのです。
ただボチボチゆこうという事ではすまない厳しい道のりであって、そこでは非日常的な思い切った飛躍が必要なのです。それで一辺全部やりかえる。0に戻って「出直す」のです。
こういう事が、人生においてどうしても必要な時があるのです。
自分の今迄の既成の枠組を一辺全部壊して取りかえてこそ、あと一歩の五分を乗り越え、新たなレベルの成人が可能になるのです。


四寸から五尺への道

私たち人間は”五尺”に成人することを目指して、今日まで来ています。
今日、人間は身体的、物理的には五尺以上になっています。若い人なら六尺です。しかし精神的霊的には─魂の次元では─まだ五寸か六寸か、あるいは一尺か二尺になっていれば大したものです。
人間は未だ成人が足りないのです。それは、人間がまだ神の如き十全性・自由自在の理を体得していない事から明らかです。
人間が本当に五尺になれば、二人あわせて十尺(一丈)になります。”十”とは、十全、完全を象徴的に意味します。
─人間が五分から生れ、五分五分と成人し、ついには五尺になる─
”五”とは二つ合せて十になるものです。
人間は一人ではなくて、男女、夫婦を始め、自分と他者の二人が互いに助け合い、補い合って一つの全体性を形作るのです。


枠組の転換

神の目から見ればほんの「五分」
しかし、なかなかこの五分が越せないのです。
それは今までの古い自分というものの殻をがっちりと固めているからです。今までの自分の小さな枠組というものを、後生大事に持っているから、その五分が越えられないのです。九十九まで来ていながら、そこにしがみついているから、それ以上のものになれないのです。そこに出直しの道があるのです。元からやりかえる。0に戻って一から再出発する時、その越え難かった五分を越えることができるのです。
「三度の出直し」というのは、元々神の子である人間が一段一段、魂の本来性に目覚めて親なる神に近づく道筋なのです。
今までの人間のあり方を反省して自分のあり方を見つめなおし、新しいあり方を身につけていかなければならないのです。物欲、金中心のような生き方をあらためて神の働き、不思議な理の働きを知り、神と一つ心になる。これも「出直し」。
拝み祈祷の信心から、人をたすける生き方、神の御用をつとめるあり方に成ってゆく、これも一つの大きな出直しです。
出直しをくりかえすことによって、魂が向上し、親なる神に近づくことが出来るのです。


「男五人女五人」の意味

男五人と女五人の十人という数は、ぢばでつとめられる「かぐらづとめ」のつとめ人衆の数と同じです。
かぐらづとめにおいては、十人の異なった個性の人間(つとめ人衆)が、それぞれ親なる神の働きを個性的に表徴していますが、それと同じことがめざるの胎にやどった十人についても言えるのではないか。この十人が原型となって、人間の魂はそれぞれ個性的な特徴を備えるようになった。
今日の世界を見ても、つっぱりの働きの強い人、つなぎの働きの強い人、飲み食い出入りの性の人、切ることの好きな人と、いろいろな魂の性をもった人がいます。


「五尺の人間」とは

「次いで、五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになった」

「五尺」は、魂の成長度を示す尺度としてのスピリチュアルな意味。
また、五尺が二つ表裏一体に寄り合い統合されて、初めて十尺(十全性)となる。
いずれにしても「五尺の人間」とは、個別の魂レベルにおける到達点を象徴するものと考えられます。
そのことを物語るのが
「海山も天地も世界も皆出来て」というイメージ。これも単なる物資的なものでなく、精神的な意味での人間完成の状況を象徴的に物語っているものと思われる。
その時、人間は「陸上の生活」をするようになります。それは長年にわたる「水中の住居」からの飛躍的発展を意味します。一次元高いレベルへの再生とも言える。その段階に至って初めて真の「智慧の仕込み」、「文字の仕込み」が与えられます。


魂の陽気ぐらし

「元の理」を「たましいの物語」として読むと世界が展開します。読めば読むほど深い意味が感じられます。それは読むたびに心魂に喜びを与えてくれます。人間の意識的な心が、その本源である自己自身(しんなる魂)を知ります。それが心にとっても、魂自体にとっても共に大きな喜びだからです。

「陽気遊びとは、目に見えたる事とは、ころっと格段が違うで」(明治23年6月20日)

真の「陽気ぐらし」とは「目に見えた」現象の世界の事とはレベル、次元(格段)が違うのです。
それは一段階も二段階も次元の高い世界での喜びであり楽しみであるはずです。
それこそ魂の陽気ぐらしであり、真の人間の自己実現の境地です。






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