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『ひながたの陰に』「おふでさき」に見るこかん様①

若き神、名はこかん。
こかん様のお姿こそ、この道を行く者の雛型

おふでさき 第十一号 25から40まで
こかん様のお身上を台として厳然たる神意と、これに対処すべき人間としての心構えにつき諄々とお諭しになっている

こかん様のご生涯はおやさまの投影であり
「若きひながた」

明治初年までのこかん様

母おやさまに親神様の啓示があった天保九年
こかん様は天保八年十二月十五日、おやさま四十歳の五女として誕生されているので、よくやく数え年二歳、未だ母おやさまの乳房にすがっていられた。

こかん様は、物心つかれる頃から、いたいけなその耳に、その心に、母おやさまに対する世の風評は冷たく響いたであろうし、また、厳しい母おやさまのお姿には、思い切り甘えようとされるお心も、時にははたと阻止せられたであろう。長ずれば長ぜられるにつれ、他家との比較対照の中に、ふと我が身、わが家のつれなさに、いいしれぬ寂しさ、悲しさを深められたにちがいない。

十七歳の娘盛りのこかん様には、秋祭に着る晴着一枚も残されてはいず、二人の姉おまさ様、おはる様が傾く家運の中にも、さすがに中山家の娘としてそれぞれ嫁いで行かれたのに、こかん様にはその希望すら見えなかった。
夢多き乙女時代を、余りにも寂しく痛々しく迎えられていた。
しかし、その寂しさを踏み越えられ、母おやさまが「月日のやしろ」にいますことを、その乙女心に治められていた。

嘉永六年二月二十二日、父善兵衛様が六十六歳をもって出直された。
おやさまは夫様お出直しという、人間として妻として、これ以上の悲しみはない中から、こかん様を大阪に出向かわせられ、その辻々に神名を流さしめられた。親神様の「世界たすけ」の教えが弘通する大暗示であった。

こかん様は母おやさまのお言葉を素直に受けられ、十七歳の娘の身にありながら、従者の者と共に大和の一角から浪速の都へ、大和河内の国境十三峠を越えて、はるばる十里の道を歩かれれた。しかも街の辻々に立っては、道行く人々の白眼視の中もひるまれず、母おやさまの仰せ通り、手にした拍子木を打ち鳴らしつつ、「なむ、てんりわうのみこと」と、神名を流されたのである。思えばわずか十七歳の娘の身をもって、それまで一歩も外へ出られたこともなかったこかん様が、よくも素直に大阪へ出向かれたものであった。この一事をもってしても、逆境の中に成人されながら、少しも歪まれることもなく、母おやさまのお立場がいかなるものか、その尊さについてとくと理解されていたことが分かる。

嘉永六年を一転機として、おやさま、秀司様、こかん様の生活は急変していった。親神様の思召に沿いきられたとはいえ、中山家は文字通り貧のどん底に落ちきられ、安政二年には残っていた田地三町余反を十年の年切質に入れ、その質をもって貧困者へ施与された。事実この頃より十年間は、食べるに米麦もなく、わずかに水と漬物で何日かを過ごされたり、灯すに油なく、月の光に辛うじて糸を紡がれたり、焚くに薪炭もなく、あちらの枯枝こちらの落葉をかき集めて、ようやく暖をとられる等、あらゆる困苦欠乏に堪え忍ばれた。
しかもこの中にあっておやさまは、

「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べずに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」

と、生かされる喜びを教えられた。

若い娘としての一切の感情を抹殺したようなこかん様

おさしづ

「若き神小寒と云ふ十年と云ふ・・・」

とあるやうに、慶応元年より明治八年迄、凡そ十年間小寒様に神憑りがあって、天啓が降つたやうである。

明治の新時代に入った当時、こかん様は三十一歳になられ、なお、独り身のまま、「若い神」としておやさまに侍られ、その片腕としてお勤めいただいていた。

※ひながたの陰に 「おふでさき」に見る秀司・こかん様  橋本武 著 より抜粋

次回からは、いよいよ、おふでさき第11号に見る、こかん様について偲ばせて頂きたいと思います🙏



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