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『たんのう』

たんのう

たんのうとは、重要な実践教理の一つです。
しかし、用語としては三原典のうち、”おふでさき”にも”みかぐらうた”にも見当たらず、”おさしづ”に至ってはじめて出てきます。それもきわめて頻繁に用いられています。これは一体何を意味するのでしょうか。

みかぐらうた

むしやうやたらにせきこむな
むねのうちよりしあんせよ(八下り目6)

このお歌は、どうも”たんのう”の心の治め方に通ずるものがあるのではないでしょうか。

おさしづでは
”たんのう”は身上や事情の伺いに対して、そこのところは”たんのう”せよというように指図されている例が非常に多いのです。
また同一人物にたびたび”たんのう”を繰り返されたり、大部分の人に説かれているところを見ると、人間は本来、たんのうすることが苦手であるらしいということがわかります。人間にはお互い自分のすることを正当化したいという欲求があるので、この欲求がある限り、病気などの思わない不幸な事態が生じた場合、そうなってきたのも自分に原因があると素直に認められません。しかし自己正当化を続けている限り本当の解決はあり得ません。そこをもう一つ掘り下げて考え直す必要があるのです。そのように教えられているのが”たんのう”なのです。

たんのうとは、胃袋を連想させる

胃袋は大変なところです。
不規則な時刻に固いものや柔らかいもの、甘いものやすっぱいもの、それこそありとあらゆるものが遠慮なしに送りこまれてきます。しかし胃袋はそのすべてをだまって受け入れ、ひたすら消化することにつとめます。もう甘いものはいやだとか決して主張しません。そんなことを言っていたら身体全体が栄養失調になります。
私たちの心も本来は、この胃袋のようでなければなりません。そうでなければ精神の栄養失調になります。にもかかわらず私たちは自分にとって都合のいいこと、好ましいことはどんどん受け入れるが、嫌なこと、耳に痛い言葉は受け入れようとしません。それが「好きが”いんねん”」というやつです。
受け入れない理由として、さまざまなことを言い立てますが結局は心がせまく、消化力が弱いのです。そこを克服して私たちの心がたくましい胃袋のようになり得た時、それが”たんのう”の心を治めたことになります。たんのうとは高度にして強靭、しかも包容力に富む精神能力を意味するのであって、決して弱い心ではないのです。

病気や事情は不条理なものです。それらは突然、身の上にかかってきます。外部から偶然におそってくるものであると考えれば不条理なものと考えるよりほかありません。そこを一歩つきぬけて、たとえそれらが不条理の外観を示していようとも、その本質においては自分とかかわりがあって必然的に生じたものと受け取る時、それが”たんのう”の出発点になります。
たんのうは医学に例えると内科療法に類します。時間をかけてもいいから内部からしっかり立て直そうとする傾向のものです。一見なまぬるく、かつ根本的な解決ではないようにも思えますが長い目で見ればそんな皮相なものではありません。

おさしづに
前生いんねんのさんげが真の”たんのう”に通ずるとも教えられています。
たんのうとは、あきらめでもなく、辛抱でもない、
そのたんのうの心の治め方とは何か。
その効用はどうであるか。
そんなことをもっと追求してゆく必要があるのです。

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