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親の心、子知らず

『親の心、子知らず』
という、ことわざ
よく聞きますよね。

私たちをお創りくださった神さまは、そして教祖は、三千世界を一日も早くたすけたい、というお心であると思いますが、人間、信者は親の慈悲にすがり、教祖の慈しみに甘えて、不思議なたすけを願い、それを喜び、それを伝え聞いた人々は、大和の隅々から、河内の向こうから、山を越えてどんどん集まって来ました。
それでいて、神さまの本願である世界たすけのこと、陽気遊山がみたいというお気持ちなどは考えようとせず、空吹く風のように気にもとめず、ただゝ現実の病気たすけに心を奪われ、それを楽しみ、それで結構としていました。
神さまは、無い人間を育てた元の神であり、人間をここまで育てて来た実の神です。しかし、この教えは今まであったような教えと違うと言われても、誰もそのことを真剣に考えませんでした。
世界の人々の顔色をうかがい、皆に合わせて通ろうとしていました。なんと、みじめな、小さな姿だろうと神さまは思召しになられたと思います。

神さまは、この教えは、そんなちっぽけな教えと違うぞと言われています。

当時の信者たちは、農家の人々が多く、日照り、雨水、風の吹き具合、暑さ寒さ、天候が大切な事でした。また病人が出たら仕事ができません。

神さまは、なぜ人間を作ったのか、人間はどう生きるべきか、陽気遊山の世界はどんなものか、そういう世界をつくるためには、どうしたらいいのか、それを教えられようとお心を使っておいででした。

でも、人間の方は、今というたら今、どうして生きていったらよいかに必死でした。
病気が不思議にたすかった。泥棒に入られたが何も盗られずにすんだ。提灯が燃え、近くも焦げているのに火災にならずにすんだ、有難い神さまだ。
それに心奪われ、世界たすけの神の心を考えようとしなかった。
教祖が、教えてくだされたものは、世界たすけの道でした。しかし信者たちはそれを自分のたすかる道に切り替えて聞いていました。

だから

教祖の逸話は、教祖のお気持ちのところまで飜訳してみなければなりません。

まさに、『親の心、子知らず』
なんですかね😅

少しでも親の心に近づきたいものです。

けれども、当時の人々の今の生き方を第一にするという行為も、現実の人間の本当の姿で尊い姿です。
人間の成人への一つの道すがらでとあるのです。

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