キンキーブーツに魅せられた。
退勤後、ロッカーで同僚から聞いた時はまだ実感がなかった。すぐにスマホでネットニュースを確認し、いくつも上げられた記事を見ながらの帰り道はいつもよりもずっと短く感じた。
私は三浦春馬のファンと名乗るほど追いかけているわけではなかった。一昨年年末のFNS歌謡祭、三浦春馬演じる“ローラ”を観て、周りで踊る華々しい演者さんたちの姿を観て、『あ、なんか楽しそう』と軽い気持ちでチケットを取った。とは言ってもその時は12月、舞台は翌年4月からの作品。興味本意で感じた高揚感が数ヵ月も続くとは思えず、興味が失せたら譲れば良いか、チケット高いなぁ、そう思いながら取った記憶がある。これまで舞台はいくつか観に行くことはあったが、ミュージカルに行くのは初めて。しかも女性人気が高い俳優が二本柱となっている作品。足を運ぶのが緊張してしまった。自分が20代だったらもっと堂々とシアターへ向かう道も軽いものだっだろうか。アウェーの空間に行く感覚だった。
当日諸々の用を済ませ渋谷へ向かった。シアター内、ステージから決して近くはない2階からの観劇。最後まで集中力は途切れないだろうかと小さな不安も感じつつ席に着いた。
舞台は開演し、テレビで観た曲、シーン、衣装。あぁ、あれはテレビ用だったんだなと、実際に劇場で観るミュージカルの圧倒的な存在感はそこに行かなければ得られないものだった。輝くステージ、次から次へと変わるシーン、惹き付けられる個性豊かな世界の住人たち。華々しい、きっと近くで見たら眩しくて目を逸らしたくなるかもしれない、そんなキラキラとした世界がそこにあった。
クライマックスへの入り口のシーン。赤い衣装を来たローラが真っ白の光を浴びてステージへ照らされた。女神のように凛とした姿、白い肌に映える真っ赤な衣装が眩しかった。悲しくて、寂しくて、絶望して流れる涙は経験しても、楽しくて涙を流すことなどそれまで無かった。しかし、ローラがそこに現れた瞬間、あまりの美しさに涙が出た。自分でもびっくりした。そこからはお祭りのような、フィナーレという言葉にこんなに相応しい瞬間があるのかと思うような時間。キンキーブーツという世界の住人がみな集まり、分け隔てなく歌い踊る。1階の客席通路には演者が下りてきて観客と一緒に踊る。とても楽しそうな空間が広がっていた。観客・演者関係なく生きた世界がそこには確かにあった。あっという間に過ぎた時間。シアターを出れば、さっきまで夢の中にいたのかと思うように現実に戻される。
チケットは一枚しか買っていなかった。人気作品だったため、その一回きりの観劇となった。あともう二枚は買っておけば良かったとかなり後悔した。チケットは13000円ほどだっただろうか。決して安くはないチケット代。それでも『またこの世界き来たい』と思わせてくれた。
この作品は2016に初めて国内公演を果たしたもの。それからの3年。3年かかるとは思っていなかった、再演に際し、そう言葉にしていた出演者もいた。
大阪公演が終わった後、三浦春馬は『またここからの景色を見させてください』という旨の言葉をSNSか何かに残していた。
そうか、また観に行けばいい。またあのローラが会いに来てくれるなら今度は最低三回は会いに行こう。そう思っていた。買ったグッズは毎日持ち歩き、パンフレットはかなり気を遣って読んでいたから状態も良い。また会う日を待ち遠しく思うことがどんなに幸せだっただろうか。今年の秋くらいには再々公演のお知らせでも来るだろうかと正直思ったりもしていた。でも、次はなくなってしまった。もうあのローラに、会いたいと思ったローラには二度と会えないのだ。私が会いたいと思うローラは三浦春馬が生きたローラなのだ。もしかしたら三浦春馬がやらないとしても、他の俳優がローラを演じていたかもしれない。そうやって作品の歴史を紡いでいくかもしれない。それはそれでいいのだ。ただこんな別れになるなんて当然思わなかった。もうローラとして生きてくれないのか、またローラとして生きたいのではなかったのか。あんなに未来を楽しみにしていたのに、も続きはない。どうしてだろう。どうしてこれからの時間を絶ってしまったのだろう。考えれば考えるだけ無意味だ。もういなくなってしまったのだから。赤の他人の私が彼の人生を推し測ることは出来ない。最後の選択を否定することなど出来はしない。その人の選択を否定することはその人の人生を否定してしまいそうな気がする。だから何も言わない。私のような一般人には理解出来ないものを抱えてただひたすらに走ってきたのかもしれない。だから何も言えない。
それでも、私は三浦春馬が生きたローラが真ん中に立つキンキーブーツの世界にまた会いたかった。色鮮やかなエンジェルスにも会いたい。今度はもっと良い席を取れたらいいな。またあの夢のような時間の中に入りたい。もっと楽しめるだろうか。しかし今後キンキーブーツ公演があっても、そこにあのローラはいない。他の演者も少しずつ代わっていくかもしれない。もしかしたら、きっと、重いものを背負って演じていく俳優もいるかもしれない。
なんでだよ。たとえキンキーブーツを観に行くことがあったとしても、三浦春馬のローラを思い出してしまって泣いてしまうかもしれないよ。純粋に楽しめないじゃないか。そのくらいら普段俳優には全く関心がない私でも辛い報道だった。家に帰ってキンキーブーツのゲネプロの映像を観ては涙がどんどん出てきた。こんなにあの世界に惹かれていただなんて思わなかったよ。きらびやかなキンキーの世界をもう一度観る日が来るのだろうか。観たいという気持ちを感じるのだろうか。
寂しい。追悼など今は無理だ。ただ辛い。寂しい。あの舞台に立った俳優たちの呟きを見ては、彼らの辛さはいかほどだろうかと思う。どうしてこの閉ざし方を選んでしまったのか。急いで受け入れる必要もない。時間は誰にでも必要だ。彼にももっと立ち止まる時間があったなら、違う選択をしたのだろうか。
もう起こってしまったことは取り戻せない。だから彼が生きたローラがそこにいるパンフレットはこれからも大事にしたい。グッズも外へ持ち歩くことはやめようか。ただ過去を大事にしたい。思い出はどんどん過去になる。それでもずっとずっと大事な記憶として持っていたい。
どうかゆっくり、静かに。今まで生きた数々の人間の人生は、あなたにしか生きられなかった人生。たくさんの人の記憶として残ります。
2020.7.18