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伊弉諾のおじいちゃんが話す【厄】の話

厄年は【役】を全うする区切りである。

そういえば、私は今年、厄年である。
しかも、本厄である。
が、厄落としには行っていない。

『まぁ、お前さんは行かんでもいいじゃろ。
わしが指導した鉄壁の守護が揃ってるからのぅ。』

そもそも。
厄って何?

『厄とはな、災いや災難と認識されておるが、本来は人が【役】を全うする区切りとされる年のことじゃ。厄とは【役】なのじゃ。』

おお。
だいぶ世間の一般常識とは違う認識だ。

『じゃろ?ここで正誤を追求する人間もおるがな。それよりも何を信じてどうするか自分で決めることのがよっぽど大事じゃて。自分が思う他人の間違いを指摘してるほど人間の人生は長くはないからな。』

それでそれで?
伊弉諾のおじいちゃんが言う『厄』が【役】でもあるってどういうこと?

『人の人生にはその時の時代や世界の役を担う年齢や区切りがある。七五三に十三詣り、大人の厄年も1つの役を担ったり、全うする区切り・節目にくるもの。その時に神社仏閣にて役を担う覚悟を神仏に示したのが、厄落としの時にお参りするという慣習の始まりじゃな。まぁ、知らんがな。』

知らんがな、と言ったときの伊弉諾のおじいちゃんのニヤリって顔を読者のみなさんに見せたいくらいだ。

『もちろん厄年を厄災・災難の起こりやすい年で厄落としは厄災・災難から身を護るためにうけるものと捉えるならばそれもまた間違いではないのじゃ。そう信じるものにとってはそれが真実だからのぅ。』

役を全うするのもまたよきかな。

ふーん。
じゃあ、伊弉諾のおじいちゃんの『厄』は【役】で、『厄年』は【役を全うする年】とすると、役を全うするって選択もありってことだね!

『もちろんじゃ。じゃが、この時代や世界が求めるそれぞれの【役を全うする】ということ。中には弱っていたり、自分やその周囲だけで手が一杯の者もおるだろう。そういうものたちが自分たちだけに集中するために【役を降りる】こと。それが【厄落とし】じゃ。』

おお!
なるほどぉー!

『他にも厄祓いという言い方もあるが、役目を追われることをお払い箱という言い方もするな。人の言葉とは面白いもんじゃな。まぁ、こういう意味もあるかもしれんな?』

大事なのは自分が何を信じるのか。
自分の出来ることをきちんと把握すること。
厄年の話にはこの2つが盛り込まれているわけだね。

『その通りじゃ。お前さんに厄落としが必要ないと言うたのは世界の望む役を全うするだけの下地が揃っておるからよ。じゃが、【厄落とし】で【役目を降りる】ことで自分自身に集中することもまた大切な選択じゃ。世界を構成しておるのは1人1人の存在そのもの。下手に【大厄(大役)】を担って潰れてしまっては世界の損失とも言えよう。』

厄年に出産すると厄が落ちる?

そう言えばおじいちゃん。
ずーっと前に女性は厄年に出産すると、その子が生まれると同時に厄を落としてくれるときいたけど。
それはどういうこと?

『それは役目を全うしたことに他ならない。世界に新たな命が生まれる。その女性は世界への【大役を全うした】のじゃ。命を産み落とすとはこの世界規模の役目を全うしたことに相当する尊きことだということじゃ。』

なるほど。
新たな命が世界に生まれるということは、その命の分だけ、世界が広がり、成長し、大きくなったということだね。

『その通りじゃ!わしらには時間軸というものがないからの。新たな命を産み落としたことは、その新たな命によってこの世界にもたらされることそのものを全て讃えての【大役】である。』

もちろん命を産み落とすことだけが大役でもなく、それぞれにあった世界が求める役目を担うことが【厄(役)】か!

『…と、いう考えもあるということじゃ。どう捉えても、どう行動しても間違いは一切無いのじゃよ。まぁ、わし個人の意見としては災いだー災難だーとビクビクするよりは自分の思うように【役を担う】【役を降りる】って捉え方の方が気が楽じゃないのかのぅ~と思ってな!


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