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命が命のままに在るということ

おチビさんが人として存在してから、ずっと命が命のまま、自然なままに生きることを考えている。
そんな生き方を今の社会の形は許しているのか。
私は1番近くにいる大きな隣人として、どんな生き方をおチビさんに示していけるだろうか。

ずっとずっと考え続けている。

僕は産直マダムキラー

おチビさんが生後1ヶ月を越えて、行動範囲を広げ少しずつ行動を共にするようになった。
産直を利用することの多いたっつん&みのりん&おチビさんの3人組たつみのりっちはよく数ヵ所の産直に出入りしていたのだが…おチビさんは見事に産直でマダムキラーと化していた。

たっつんに抱っこされ、くるんと背中を丸め、お団子みたいな丸いおけつをぷりっとさせてくぅくぅ寝たり、時おりじっと丸い瞳で見つめるおチビさんにマダムは骨抜きメロメロあらあらまぁまぁだった。

私はおチビさんに【産直マダムキラー】の異名を付けた。
わざわざUターンして声をかけて貰える程である。

『産直マダムキラー』
恐るべし。
たっつんとみのりんだけなら見向きもされないのに、おチビさんがいるだけで一気に視線が集まるのだ。

色んな方々が色んな声をおチビさんにかけてくれる。
みのりんはおチビさんが生まれるまで自分から進んで小さい人に関わろうとしなかったから、ここまで人がおチビさんに声かけし、笑顔を向けてくれるのかと結構感動していた。

おチビさんは何かを誰かにしてあげられる訳でもなく、ただそこにいるだけ、ただ存在しているだけだった。
命として生まれてただの命として在るだけ。
それだけなのにこの人の心を惹き付ける力強さったら最強なんじゃないだろうか。

おチビさんと一緒にいることで見えてくるのは命が命としてただ在ることの強さ、そして、命が命としてただ在ることをいつの間にか許さずにシステムの中に組み込んで動くことを半ば強制する社会の形。
矯正されて管理されることがいつの間にか命になってしまってないだろうか。

そんな社会の形の中で…命が命としてただ在ることを取り上げられておチビさんも生きていかなければならないのだろうか?
(そんな生き方を…私はこの子に教えるのか?これが生きる術なんだ仕方ないんだと思いながら?)
そんな自問自答が悶々としてわだかまる。

おチビさんに伝えていくこと

自分がおチビさんに伝えていけることってなんだろう?
これからおチビさんはたつみのりっちという家族単位を飛び出して、大きな広い世界に飛び出していく。
そんなおチビさんに私は1番近くにいる大きな隣人として何を示せるだろう。

自分が自分で生きていくこと。
これに尽きるなぁって何度考えても最終的に『おチビさんがおチビさんとして生きていく』に着地した。

おチビさんにとって幸か不幸か、たつみのりの2人はそのまんまの自分で生きるを貫き続けた2人だから。(というかそういう生き方しか出来ない2人だったから…笑)

ただ、私は当然のことながらおチビさんではないのでおチビさんの生き方はおチビさん自身が見つけていかなければならない。
私の生き方はあくまで私の生き方であって、おチビさんの生き方じゃない。

それを私もおチビさんも前提として知っていないといけないなと思う。
自分を社会の形に変えて生き抜くのではいつか自分という形が壊されてしまうから、自分という形のまま社会と程々に付き合っていけるフィールドで私たちになろうともせず、君は君のまま生きていけ。

たつみのりっちのキャラデザインは親子であってもこれだけの違いがお互いにある中で生きているということ

にゃんこみのりんは木に登ることを強要しない。
たっつんわんこも深掘りたっつんすることを求めたりしない。
おチビバードは私たちに出来ない空を飛んじゃうかもしれないのだから。
例え社会に求められなくても、彼が翼を持って生まれ、空を飛ぶと望んだら飛ぶんだ。

後ろを振り向くこともなく、私の手を振りほどいて生きていってもいい。
そう生きるとか、そう生きたいと決めたなら。
たっつんはたっつんの在るままに、みのりんはみのりんの在るままに、おチビさんはおチビさんの在るままに。

それがたつみのりっち。
在るままに生きる1個の命として。

ただ存在していく強さをでっかい柱に生きていくことを伝えていこう。

命と命は対等

たつみのりっちの中には力関係はない。
それぞれの個性はあるけれど。
親子という血縁があるそれぞれの存在をそれぞれがシンプルに向き合って存在している。
なかなか言葉にすると難しいけど、そんな感じ。

おチビさんを対等な1人の人として接することは、おチビさんに自分以外の人に対等に接していくことを何よりも伝えていくことになる。
そう感じることが多々ある。

例えば結構おチビさんはこれでスキキライがあったりする。
彼は生後7ヶ月でもよく人を観察して見ている。

おチビさんを尊重して可愛がってくれる人にはニッコニコで大好きー!を表現するが、自分本意で可愛がる人の前ではスンッとして距離を置いてる。
見ないふりして無視することもしばしば。
上手いなーと思う。

知らないふり忘れているふりをしているようで、この人はこういう関わりをしてくると覚えているから塩対応なんだな。

どうせ子供だから、
どうせ何も覚えてないから、
どうせ分かんないから、
は通用しないんだと。

おチビさんの世界は純粋で、明快で、事実のみを映してる。
この人は僕という個人を尊重してくれている。
自分の気持ち本意で可愛がろうとしてこない。
子供を自分本意で可愛がってる人は結局…その子を可愛がることで自分が満足したいだけなんだということをおチビさんは見抜いている。

この子は子供だからと侮り、大人の傲りで接すれば、人を侮り、傲って接することをその子は学ぶだろう。

自然な命の誕生の形

おチビさんを通して人としての命の自然の形について、彼がお腹の中にいると分かってからずっと考え続けている。

妊婦である自分の体の人という生物としての理想な状態は?
命が自然に生まれる…その形は?
そして、その自然な命の誕生はどこでどんな風にしたら実現できるんだろう?

そうして選んだ自然分娩推奨派の産婦人科医院でさえ、実はみのりん的には本当に自然な形だったのか?と疑問に思う感覚があった。

いや、先生も助産師さんも看護士さんも本当に良い方々で、確かに自分の生活圏内で1番相性が良い所を選べたと思う。
思う、けど!

子宮口が開き切るまで、力を自然に流し、何とか凌いで初産にしては順調な方だったのだけど…破水しなかったのだ。
だから医療的判断で人工破水して羊水が一気に流れ出してきて…そこから一気におチビさんは前に進まなくなった。

膣の大きさが元々小さかったとか、会隠が伸びずに硬かったとか、色々とあると思うし、医療的判断についてそれこそ私には判断しかねる。
けれど、おチビさんはこの時どう感じていたのかを知りたい。

私がその時におチビさんから感じたのは戸惑いと不安だったから。
それが初めてのお産に臨む私自身の気持ちに呼応したものかもしれないけれど、あれはおチビさん側からしたらどう感じたのか。

ちょっと今後の参考にしたい。
まことに情けないことに私は本当に気が進まないのだけど、2人目(恐らくいるとしたら女の子な気がする)の時に何よりもおチビさんの言葉を参考にしたい。

ほんっとーーーーーーーーにお産は2度とごめんだけど。
自分に宿った命から逃げるのはだっせぇと思ってしまっているから。

悶々しながらたつみのりっちの日々は続く…!

リアルな見えない世界の体験を綴ろうと思っています。自分が感じた感覚をそのままに。私の大切にしたい世界が伝わることを願って。見えない世界も大切にしたいと思う方はサポートしてくれると嬉しいです。