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東急の追求する価値

東急は恐らく、5月13日に発表予定の21年3月期の連結決算では、過去最高額に近い巨額の赤字を計上するだろう。
しかし、そのこと自体は経営不安には繋がらない可能性が高い。
勿論、これまで培ってきた沿線という領域で、圧倒的に強固な基盤を持てる鉄道事業という事業形態の優位性がその背景にあるのは間違いない。
ただ、私はそれに加えて、持続可能性のある将来に向けた一歩踏み込んだサービスや価値を追求している側面がある企業だという点も見逃せないと思っている。

リアルに列車という乗り物を運行して、人や物を輸送することによって安定的な利益を得るビジネスモデルである鉄道事業を核としている企業にとって、コロナ禍の影響は極めて甚大だ。
既に21年3月期の決算を発表した東武鉄道や小田急電鉄など大手私鉄は100億円単位の、JR6社のうち事業規模の大きな東日本、西日本に至っては1000億円単位にも及ぶ、莫大な純損失を計上した。
昨年来、大手の鉄道各社は急ピッチで「事業環境は従前には戻らない前提で、事業を再構築する」とか「デジタルトランスフォーメーション(DX)へ早急に対応する」といった対応策を掲げている。
しかし、現時点での新サービスは、未だに「オンラインで指定席の特急の予約ができる」とか「旅行商品の予約を店舗に行かずにできる」といったリアルで提供していたサービスを単にデジタルに置き換えた程度に留まることが多い。
DXが本来は目指しているはずの「デジタルを使って、より快適に生きられる」という水準を叶えたサービスは少ない。
数少ない実現事例は、たとえばJR山手線・高輪ゲートウェイ駅に初めて設置された「無人AI決済コンビニ」などが思い浮かぶ。
そういった新しい便利なサービスでさえ、各サービスごとにスマートフォンのアプリのダウンロードやウェブでの利用登録、はたまたクレジットカードの設定といった部分の煩わしさに鈍感な側面は、拭いきれていない。
たとえば呼吸をするように、意識せずとも自然にサービスを享受できる水準に至るのを理想として、サービスの在り方を追求していく感覚こそがDXの本質なのだと思う。
これまで、鉄道の運行というリアルでのサービスに偏重してきた鉄道事業者が手掛けるデジタルサービスは、まだ、リアルを代替するデジタルという着想に留まっているように思える。
邪推するならば、デジタルは生きていくうえで、"楽しさ"や"豊かさ"を得るための手段に過ぎない、という観念が乏しかったのではないだろうか。
一方で、東急が近年、実装化しつつあるデジタルサービスは、この難題に取り組もうとする意識が少なくとも顕在化していて、現状で提供している複数のMaaSに関連するサービスや、単なる連泊割引とは一線を画す長期宿泊サービスなどに取り組んでいる。

実は東急は、「観光型MaaS」という造語を発表した企業だ。
18年当時、世界で先駆的にMaaSを実装していたフィンランドで得た「MaaSに共通解はない」(※1)という知見から着想を得た言葉だった。
伊豆の観光振興目的でデジタルを活用した顧客・事業者双方にとって効率的で体験価値を生むデジタルサービスの実証実験「Izuko(イズコ)」に初めて使われた。
19年頃からは「都市型」、「過疎地型」、「観光型」などの分類が定着してきたことは、国土交通省のサイトからも窺える。(※2)
東急は、先述の観光型MaaS「Izuko」では、21年3月31日まで実施した実証実験のPhase3で、Izukoだからこそ提供できたオリジナルな観光体験で、コロナ禍にあって新たな観光目的の来訪を創出したことや、決済手段の多様化で不慣れなデジタルサービスへの忌避感を緩和し利便性を向上したことを報告している。(※3)
また、都市型で単なる移動目的のMaaSに留まらない、総合的に暮らしを豊かにするデジタルサービス「DENTO(デント)」の実証実験Phase1(4月28日まで)を実施した。
「DENTO」は、割引1日乗車券や映画の割引券、商業施設の優待などクーポン、他には"動くシェアオフィス"をコンセプトにした快適な通勤バスのチケット、ジムに併設したシェアオフィス利用券、ハイヤー送迎と料亭の晩餐をセット化した体験チケット、といった移動と連動して暮らしを楽しむ様々なサービスを販売するものだった。
新たに5月12日からは、定期券保有者への特典として、電動自転車やモバイルバッテリー、傘など生活に付随するシェアリングサービスに特化したサブスクリプション型サービス「TuyTuy(ツイツイ)」の実証実験にも取り組む。
更に、4月からは「定額制回遊型住み替えサービス」と位置付け、全国39もの東急グループの宿泊施設で専用サイトからの予約などで30泊か60泊の"旅するような暮らし方"を実現するサービス「tsugi tsugi(ツギツギ)」の先行体験を開始した。
これらのデジタルを活用した挑戦的なサービスは、理想的な住宅地の開発を目指して渋沢栄一が設立したといわれる田園都市株式会社の理念から連なる、人間が求める"楽しさ"や"豊かさ"といった欲求と、現実に提供できる価値を接続する思考の発露のように思える。
それはIzukoでは、非日常体験であるためダウンロードなどの煩わしさを緩和したブラウザでアクセスするサービスとして設計し、対照的にDENTOでは、日常生活に深く浸透したコミュニケーションツールとなったアプリのLINEを通じて利用するサービスとして設計した違いにも現れているのだろう。
tsugi tsugiやDENTOの将来的な機能拡張についてそれぞれのサービス担当者に尋ねると、賃貸住宅のサービスがベンチマークとして視野に入ってきていることが窺える。
これら新たなサービスを総合すれば、現代ならではの衣食住に加えた豊かな体験、という人生の彩りをデザインする試みに近しい。

鉄道事業者はこれまで、ほぼ150年にわたって線路を敷設して列車を走らせることで、人間が実現できる移動の範囲と可能性を拡張してきた。
それは100万人単位の沿線住民という、デジタルサービスを営むスタートアップ事業者では到底、想定できない規模の巨大な基盤を持つ存在へと成長させてきた。
今や国家レベルの影響力を超克しつつあるGAFAでさえ、サービス基盤は圧倒的な人数規模の利用によって、その立場ができてきたに過ぎない。
そうであるならば、100万人単位の認識・感覚の最大公約数的な部分を探ろうとするサービスをデジタルという手段で実現しようとする試みは、まだまだ迅速とはいえないものの、鉄道事業者が目指すべき新たな豊かな暮らしの方向性として、1つの重要な解なのではないだろうか。
決算と共に発表されるとみられる新しい東急の中期経営計画において、どのような施策の実現を目指すかという姿勢で、私たちの将来の生活に、現実に根ざした側面からどのような価値を想像し、創造できるかという1つの例が示されるだろう。

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※1 森田創「MaaS戦記」
※2 https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/japanmaas/promotion/ 
※3 https://www.tokyu.co.jp/company/news/list/Pid=post_319.html 
※画像 東急池上線・池上駅の「しぶそば 池上店」のご当地素材を使ったオリジナルメニュー「花巻そば」(480円)

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