海がきこえる。君がいなくなった後も。

そのアニメ映画は、装飾音が付いたCのコードを「ド・ミ・ソ」とキーボードがなぞっていくことから始まる。
Cメジャーの調性を持つ明るい導入かと思わせつつ、その基音のCに装飾音が付くことで、どこか不確かな青春の味わいを示しているかのようだ。
そして、タイトル「海がきこえる」の表示と共に郷愁を誘う音楽に切り替わり、ナレーションで物語の根幹が語られる。
「僕と松野が初めて里伽子と会ったのは、一昨年、高校2年の時の、やはりこんな真夏の日だった」
描かれるのは、高知の純朴な男子高校生に訪れた、東京から突然やってきた美少女へ募らせたやきもきした思い出だ。
映画で主人公・杜崎拓とヒロイン・武藤里伽子は会話をした回数すら数えるほど。
主人公の友人・松野豊を加えた3人でほぼ進行していくストーリーなのに、3人が面と向かって語り合うシーンなど1ヶ所もない。
1年半を描いた72分のアニメで、3人が言葉を交わし合うのは、最初の日の挨拶のみだ。
それでも、高知の風が薫るような淡い風景の描写を積み上げていくだけで、アニメのキャラクターが少し眉を動かして息を呑む声が聞こえるだけで、拭いきれない悔いや甘い思い出といった青春と呼ぶべき日々を映し出す。
ラストは、東京の大学生となった杜崎拓が、何気ない日に偶然、吉祥駅で武藤里伽子を見つけた瞬間の内心の呟きで終わる。
「『ああ、やっぱり僕は好きなんや』。そう感じていた」
この映画が佳作たる所以は、誰もが捉えどころが難しい思いをさせられた、若さ溢れる「好き」の衝動と、その衝動で突き抜けることが難しい、友情と恋と日常のバランスといった、「青春」の一言に包括すべき焦燥が美しく描けていることにあるのだろう。

映画は、ジブリの若手スタッフの企画として制作されたものだった。
夭折した氷室冴子の傑作小説を原作に、宮崎駿や高畑勲ではない新しい世代のクリエイターを本格的に見出すためのプロジェクトとして、進められたものだ。
原作は、杜崎拓の内心を吐露する文章から始まる。
「いろいろ問題はあったけれど、やっぱりすべては里伽子に戻ってゆくんだと思う」
この書き出しの通り、拓から見えた里伽子にまつわる出来事に主眼が絞られた小説だ。
加えて、東京での拓の日々も描かれ、高知では進められなかった2人の関係を、舞台を変えた東京で深めていく。
高知での情景を交えた過去の追憶と東京で恋愛の芽が生えていく過程を丁寧に育てて、アニメ映画以上に淡い美しさを積み重ねる物語だ。
続編「海がきこえるⅡ アイがあるから」を含めて、数えるほどしか会わず、電話も交わさない(90年代が舞台の小説なので、メールすら登場しない)で関係が進んでいくのだ。
淡く不器用な杜崎拓の視点から、キャラクター各々の若い日々が文字に刻まれていく様子で、氷室冴子の青春小説の巧さが際立つ。
映画とは異なり、松野豊は杜崎拓と並び立つ存在というより、一段高い視点に立てる脇役の印象が強まる配置だ。
そして、全体的に視野が狭まっているため、主人公の感情の流れをよりトレースしやすいものになっている。
微妙な表情の違いから読み取る作業が必要な映画より、ロジカルで明快に綴られた心理描写が心地よく、「きこえる」というタイトルがより染み入ってくるような読後感が特徴的だ。
宮台真司の詳細な分析と軽快な語り口を兼ね備えた解説にある通り、「アニメ版よりも遥かにスゴイ原作」といえるだろう。
一方で、アニメ映画にしたことにより、圧倒的な魅力が付け加えられた部分がある。
何といっても、絵が動き、声がつくことによって表出してくる、圧倒的な「武藤里伽子」の存在感だろう。
ワガママで強引過ぎる彼女を、想像上の姿を超えて具現化したことで、近寄りがたいけど離れられないヒロインとしての魅力が、如何なく発揮されている。
その彼女の魅力に捉えられてしまった存在は、やはり杜崎拓1人では物足りなくて、眩さを直に体験するもう1人として松野豊の位置が引き上げられたのではないだろうか。
アニメ映画と小説を対比するとそんな構造の違いが浮かんでくる。
一方で強く意図していなかったであろう違いとしては、彼女の魅力にアテられた男の子が2人になったことによって、杜崎拓も松野豊も、里伽子に惚れた同志としての色合いが濃くなる点だ。
それは、さながら舞台上で輝くアイドルと客席のファンのような、手の届かなかった思い出という普遍性のあるストーリーに変換される趣がある。
私は、アイドルを見るようになって10年が経つが、この文章を書いている9月12日では、まさに手の届かなかった思い出が形になるような光景が現れて、驚いている。
少し、話を転じてみよう。

今日、AKB48の横山由依がグループからの卒業を発表し、その卒業に寄せた歌「君がいなくなる12月」のミュージックビデオが公開された。
「君だけがいなくなるなんて どうしても想像できない」
サビにそんな一節があるその曲の映像は、コンテンポラリーダンスを踊る横山由依を、自身で美しく監督した作品となっている。
10年前のテレビ番組「ミュージックステーション」で代役のセンターとして歌と姿が美しいと思った瞬間から続く私の思慕を、更に強めるような姿が、彼女自身で作った映像に刻まれていることが感慨深い。
彼女の、低音部もよく響く倍音構造を持った特徴的な声が活かされる音楽の流れもとても穏やかで、気品のあるバラードだ。
そして、小説と映画の「海がきこえる」の優しいCメジャーの世界より現実は少しビターかと思わせてくれるような、#が5つもついて半音下がった複雑な調性のBメジャーで響く曲は、「そんな日が来ないで欲しかった」という詞がよく似合ってしまっている。
悔しいながら、やっぱり「似合ってしまっている」曲が贈られているのだ。

翻って、小説と映画の「海がきこえる」に通底するノスタルジーの核を考えてみると、手の届かなさそうな存在へ募らせた思いがある不自由な体験が、豊かに鮮やかに感じられることに収斂されるのだと思う。
一方で、アニメで作り込んだ世界を提示できる映画よりも、現実は届かなかった過去やありえたかもしれない現在への思い出が光るようなものなのだろう。
現実が持つ圧倒的な儚さに思いを寄せると、未来への微かな希望はより強まってくる。
「君がいなくなる12月」では、未来を思うことの苦しさが歌詞に綴られることで逆説的に、(恐らく)歌える女優を目指すだろう彼女の未来が希望に包まれているように、喜びをもって送り出すことができるように、空元気で鼓舞することができるような気がしてくるのだ。
振り返れば、私が見てきた10年間の横山由依は美しかった。
アイドルとファンという関係性で、数え切れないほど言葉も交わしたが、彼女の笑い声が響いたり、少し天然気味に私の言葉を受けて考えたりする表情ばかりが記憶をよぎる。
結局、私に理解できる事実は僅かだと思っている。
横山由依の真正面を向く瞳は、小説で想像した武藤里伽子と、映画で頬をぶたれても睨みつける武藤里伽子と同じく、未来を信じられるほどに強いということくらいなのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?