平静と刺激の狭間で


率直に記せば、興味が湧かない人達の話だと思った。
金原ひとみの小説「アタラクシア」に登場する人物は全て、性と暴力に関する苦悩を抱えている。キャラクター達を丹念な情景と痛切な心身の刺激で描写した文章で、読み進めるのに随分と苦心した。

この小説のタイトル「アタラクシア」は、古代ギリシャ哲学に由来する哲学用語で、心の平静・不動を意味する。しかし、登場人物は平静や不動とは程遠く、様々な情念に取り憑かれた行動を取る。
私自身は、共感する感情は殆んど持てなかった。しかし、肉体に根差した痛みの刺激と、関係の薄い事柄が次々と目につき記述される現実感は、久々に読んだこの作家の筆力を改めて感じた。

金原ひとみは私にとって、同世代の出世頭の1人というべき存在だった。確か、彼女が父のツテで大学のゼミで議論を交わしていたという頃に、私は大学に籍を置いていたはずだ。
彼女の芥川賞受賞作「蛇にピアス」は、ルイ、アマ、シバの若者3人に焦点を当てて、社会の片隅を舞台にして刺激のあるアンダーグラウンドの世界と性と暴力を描写した、ある種の正統派と言えそうなくらいの冒険を描いた小説だった。
一方で、私にとって同作以来に読んだ「アタラクシア」は全く趣が異なる。
表面的には、語り手は小説が売れた作家、出版社勤務のエリート会社員、経営者で金銭の不自由は見えない。たとえ語り手が女子大生であっても、パパ活で単なるサラリーマンを凌駕する金額を手にしている。私にも彼女にも15年以上の月日が過ぎて、冒険に心が何となく動くよりも、リアリティの重みの方が価値を得たということなのだろう。そしてそれは、想像力の具現化が進んで正当性が重んじられる今の社会では、当然のことなのかもしれない。
私自身にとっても寂しさを再確認する発見だった。

少し、15年以上の空白を埋める共通項を探ってみる。
金原ひとみは、フランスに移り住んでいたと聞いた覚えたあった。
「アタラクシア」にも、料理や言語、地名などフランスの文化が随所に描かれている。
フランスには行ったことがないし、言語を一切理解できない私なりに、そうしうたフランスの印象を記してみる。
たとえばクラシック音楽では、エクトール・ベルリオーズからオリヴィエ・メシアンなどに至る作曲家で綴るフランス音楽の系譜と、指揮者として意外と好まれる佐渡裕やトゥガン・ソキエフの得意とする「爆演」に近いフランスの音楽は全く異なる。
作曲者からみたフランス音楽は、ベルリオーズ激しい情感表現やドビュッシーやラヴェルのような精彩な描写など、形式より独特の美学が優先するように思える。
そうしたフランス音楽を、正統派として表現できる指揮者といえば、存命ではシャルル・デュトワが筆頭だ。しかし、彼の指揮者としてのキャリア約60年のうち、フランス国内ではフランス国立管弦楽団の音楽監督だった僅か10年に過ぎない。また、フランスを代表するオーケストラであるパリ管弦楽団では、フランス出身の指揮者は1人しかいないという歴史がある。
つまり、フランスは、頑固で固有の意志に基づく文化があるのと同時に、そうした彼ららしい表象は、必ずしも好まれないという矛盾があるように思えるのだ。
「アタラクシア」に引き付ければ、登場人物は心の平穏を望みながら、痛覚や快感など肉体の刺激と切り離せない矛盾が徹底して描かれる。
職業や金銭などの充実を一皮むいた先にある茫漠とした精神風景として描かれるのだろう。
しかし一方で、意識させられるのは肉体の刺激の重要性だ。
心が安定して平穏でいるだけでは不足だから、他人との関わりを求めずにはいられないように思えてならない。
古代ギリシャでは、享楽を是とするエピクロス派が「アタラクシア」の概念を理想として使い始めたという話を聞いたことがある。
であるならば、単なるイデオロギーを超えた平静と刺激の狭間を探って歩くしか、道は存在しないのではないだろうか。

https://community.camp-fire.jp/projects/view/65828?fbclid=IwAR2PEXTFK7F_l_VlRdTn8ZatZHF1-t261WmdT9-utflnniY7hAYQv9E-Nsw

#PS2021

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?