100円ショップ。

 100円均一、百均とも呼ばれる100円ストア、あるいは100円雑貨店である。この物価高でも、一途に100円均一の価格を守っており、目には見えないが、特筆すべき偉業である。庶民には大変有り難く、神様、仏様の存在である。その証拠に他の店は閑散としていても、いつも買い物客の出入りが絶えない。
 100円ショップは21年4月に8024店に達し、全国8000店の壁を突破した。上位4企業に寡占化された市場で、最大手は「ダイソー」で、2位は「セリア」、3位は「キャンドゥ」、4位は「ワッツ」である。全店の売上げは9500億円に上り、1兆円に王手がかかっている。
 これらの企業は創業家の株式保有率が高く、流通系企業が大株主になっているところはない。創業家のカラーを残した経営体制と大手系列に属さない営業展開の自由度が、成長を支えてきたと言っても過言ではない。
 均一販売の萌芽は江戸時代に遡るが、1985年3月に有限会社ライフの創業者・松林氏が愛知県春日井市に日本初の固定店舗による100円均一店をオープンし、「100円ショップ」と命名し、この類の商売が本格的に始まった。
 その後現在の大創産業(100円SHOPダイソー)の創業者の矢野氏が商品の品質アップに力を入れた。催事販売を依頼するスーパーや百貨店の信用を勝ち取り、91年に最初の常設店舗を開設した。バブル崩壊(90年)後の不況とデフレともあいまって急速に店舗数が増加し、「不況時代の成長業界」と称されるようになった。
 ダイソーは77年の創業で本社を広島県東広島市に置き、国内に約3300店、海外では26の国と地域に、約2000店を展開する。資本金は27億円で、今年は5500億円ほどの売上げがあり、従業員は約2万3千人を抱える。
 創業者の矢野氏(79)は、中国北京市に生まれ、8人兄弟の5男である。敗戦後、父親の郷里である東広島市に引き揚げ、中学校から広島市に転居し、地元の県立高校に進学した。
 67年3月中央大学理工学部二部土木工学科を卒業した。父親は広島で医師を開業していたが、貧しさから中央大学の二部への進学を余儀なくされたというが、この辺りにはいささかの疑問がある。しかし、開業医と言っても、今でも昔でも赤髭医師に徹すると、それほど利益が上がる仕事ではなく、さもありなん。
 学生結婚を機に現姓名に改姓・改名し、妻の実家のハマチ養殖業を継いだが3年で倒産し、夜逃げをした。その後セールスマン、ちり紙交換、ボウリング場勤務など9回の転職
を重ねた後、72年に雑貨をトラックで移動販売する「矢野商店」を創業した。
 矢野氏はいわゆる経済団体に参加せず、経済誌などのインタビューもほとんど受けないため、マスメディアに登場する機会はなく、人物像は詳しく分からない。高等学校の同窓会で「『縮む世紀』とも呼ばれる21世紀、人にどう貢献できるのか、生き残るには企業として善、徳を積むしかなく、そのためには社会貢献をしなければならない。これからの企業の生きる道はそれしかない」と語ったが、父親の信念を引き継いでいるかもしれない。
 矢野氏の長男は奈良県立医科大学微生物感染症学の教授を務める。18年に社長を次男に交替するまで、毎日倉庫を動き回り、「明日潰れる」「明日潰れる」とつぶやいていたようだ。
 矢野氏は非凡な実業家であるが、運も実力もなかったおかげで、急成長してきたセリアやキャンドゥのおかげで、「潰れるかもしれない」と本気で思い、その危機感があったから持ち直すことが出来たと心中を披露する。
 資料は「ウィキペディア」から引用したので、少し偏った内容になった可能性がある

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