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老いとクリエイティブな暮らし

今日はまだ2月なのにやたらと激しく雨が降っています。夏になったらどうなるんだ、と思ってしまうような激しさですね。


老いについて

最近、周囲で老いについて感じる機会が増えてきました。わたしももう数年で40歳になろうという年頃です。そうすると、必然的に先輩だったりは50歳に近づこうとしています。老眼がどうとか、遺産相続がどうだとか。

ちょっと前まではあの子がかわいいよね、とかこういう音楽が痺れるよな、とか言ってたはずなんです。就職したら、とかサラリーマンになんてならねぇとか言ってたはずでした。

しかし、気がつけば就職はしたし転職もしたしサラリーマンは10年以上続けたし脱サラもしたし、という状況です。子供もいるし生活はかかってるし、ということになっていて、10代の俺はどこへやらです。


迷わないはずもない

これはとある仮面ライダーで出会ったフレーズなのですが、40歳が近づこうが、どれほど経験があろうが「迷う」のです。

つい先日、子供の頃のヒーロー的な野球選手のやってしまった話が取り沙汰されていました。あれほどヒーロー的な選手であっても、迷います。そうだとすれば、我々のような一般ピープルはどこまでいっても「これでいいのだろうか」と悩みます。

しかし、よく思い出してみると「あんまり考えずにきたかもなー」という感覚的な感想とは別に、「いま思いつくことは、これしかない。間違ってるかもしれないけど、これだ!」としたことの方が多いからそういう感想が記憶になっているのかもしれないと思うようになりました。

とある仮面ライダーで出会ったフレーズは、こう続きます。

「それでも、明日を探せ」

こうしたフレーズは聞き流してしまうことができるようなものです。

だって、番組オープニングにチョロっと流れるものですし、子供向けの番組ですから。それでも、偶然に目に止まってしまうものです。こうした偶然を導いてくれた息子にも感謝しなければなりません。


ブレない部分、伸び代でしょうか

面白いもので、年を重ねても迷いはつきません。結果として、人間は経験を積み重ねるたびにブレていきます。ブレ幅が大きいと「人として軸が…」などと言われてしまいます。とはいえ、どの程度ブレているかは実は重要ではありません。

それは、どの程度ブレていない部分が残っているか、そしてそれは何なのかが重要だからです。

端っこがいくらブレていても、人間の軸はそれほどブレることはありません。もしも軸からブレているとすると、それは軸となる部分が見当たらないだけです。しかしそれも長くは続きません。経験を積むにつれて、ができてくるのです。しかもその生成の過程において自分の制御は効きません。そうやって形成されたそれは、立ち位置でも立場でもスタンスでもありません。軸です。

その人が何か所作をするたびに通過するフィルタのようなものです。その味付けによって、周囲の人間はリアクションすることになります。

そうすると、軸形成についてはその人についての伸び代ではないかと思えなくはありません。軸さえ形成されてしまえば、その軸がどのくらいの太さになっているかだけが重要で、ブレ幅は別の要因によって発生している可能性があるのです。

老獪(ろうかい)

個人的な意見として、人間としての軸というものはその人が決めてしまったことに該当すると思っています。

「これはこういうものだ」あるいは「こういったものはこうするべき」などと自分で決めてしまったことがフィルタとして自分の所作に制約をかけます。これが軸になるという考え方です。人間としての軸は、その人が自分にプログラムしてしまったフィルタのことを指すということです。

言葉として「経験を積んでいて、悪賢い」という意味で老獪(ろうかい)という言葉があります。これも他の人間から見たときに、その人のフィルタを通った結果が「賢いけど、悪いやっちゃなー」となるからそういった評価につながるのだとおもいます。

経験を積んだ結果、自分で「うまくいった」「うまくいかなかった」という事実から学習して「これはこうするべき」などといった方法を身につけます。これは「迷い」から生じた結果です。

とすると、軸はいくら太くなってもまだ明日を探してはいません。明日はいったいどこにあるのでしょうか?


老いとは何か

生物的には身体が老朽化してくることをいうでしょう。人間も生物です。生殖を終えれば死に向かって突き進むだけです。

人間は生物とはいえ、生殖を終えても人間としてできることを探します。それは子供の成長に寄り添う期間が他の生物に比較して長くなる傾向にあるからでしょう。

そうすると、人間にとって老いというのはなんなのでしょうか。わたしにもまだ答えはありません。現時点での回答をするとすれば、老いは

迷う自分を受け入れることができずに衰えていく状況にある

ということだとおもいます。

身体的、精神的な衰えは迷いを生じます。思ったように体を動かすことができない、あるいは、こんなことで挫けてしまうような自分ではなかったはず、などという迷いです。これらを真正面から受け止めるのは、ここまでの経験があること、そしてこれまでの成功体験などから難しいものがあります。

衰えを受け入れるためには、自分がいま何ができるのか自分を知ることが必要になります。これは10代の頃のいわゆる自分探しとは異なります。可能性を探るという意味では似ていますが、根本的に異なるのはより具体的な事象を扱うという点です。

10代の頃は「こんなこともできるんじゃないか」という可能性を探ります。衰えを受け入れるのは「右腕と左腕を同時に開くと、どちらかの腕が何センチ下になっているか」を突き詰めていくようなことです。そこに夢はありますが、儚さはありません。

もちろん10代の頃の自分探しを否定することはありません。なぜなら、それが最初の「衰えを受け入れる」準備段階だからです。生物は生まれた瞬間から衰えていきます。死に向かっているのです。

最初から細かいサンドペーパーで磨くよりも、荒々しくノコギリで刻むほうが輪郭はよりはっきりしてくるでしょうからね。

老いてる暇などない

本当に面白くシビアな時代になりました。

目立てば目立つほど、あっという間に消費されていきますし「ゴミだ」「カスだ」「クズだ」とこき下ろしてくれることもあれば「すげー」「かっこいい」「神」と褒めちぎられることもあるでしょう。あるいは評価が完全に反転することも、その反転するまでの期間が一瞬に近しいこともあるでしょう。

さらにウェブ上では、自分のコンテンツが検索エンジンに認められなければ、ユーザーが自分のコンテンツを目にする機会はありません。そしてユーザーの目は10年前に比較すると、信じられないくらい肥えています(そうじゃないですか?みなさん)。

10年前なら自分で「おーっ、かっこいいーこういうの欲しかったんだ」と自分で自分のコンテンツを眺めていることもできました。ユーザーは自分の欲しいコンテンツを、いまではかなり容易に発見することができます。そして自分の放出したコンテンツは、目の肥えたユーザーの評価を畳み掛けるように浴びることになります。

あいたたーと思う暇もなく、自分もそうした一人のユーザーとして辛口の評価をしていますよね。

もう老いている暇なんてありません。「あと10年若ければ」なんて言ってる暇があったら「40歳の俺をくらえーい!!」とぶつけたほうがいい時代になりました。新しいも古いも受け取る人次第です。

わたしも負けじとコンテンツをつくっていきたいとおもいます。
でも、どうぞお手柔らかに。

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