どうしてわたしはクソみたいな文章を書くのか

はじめに

今回は結論から書きます。文章がうまくなりたいからです。

モチベーション

しょうもない話ですが、前職では毎日のように得意先へメールを書いていました。つまり、毎日なんらかの文章を書いていたのです。わかりにくいものには資料も別途添付してましたし、それでもニュアンスが微妙なものについては電話もしていました。しかし、いまはメールをする得意先はいません。そうなると、文章を書かなくなれば徐々に日本語の感覚は鈍ってきます。

おそらくですが、文章にとどまらずスポーツなどでも技術的なものは毎日使って始めて現状維持ができると過去の経験から体感しているのです。そのため、少しでも書いていなければいずれはまともな日本語を書くことができなくなるであろうということも至極当然の結果に思えてきます。

何がモチベーションの根拠なのか

ひとつ極端な自分の経験ですが、数十年前の話です。わたしは夏休みの宿題を早めに終わらせる方でした。早めに終わらせて、あとは悠々自適なバケーションというのが目論見でした。ですから、早々に宿題を片付けてしまうのでした。そうしますと、夏休みまでの数十日の間で鉛筆を握ることはほぼありません。 結果として、休み明けのプリントに自分の名前を書くタイミングで自分の名前を書くことができない、あるいは鉛筆の持ち方を忘れてしまっているという経験をしたことがあります。 ネタのようですが、実際に起こりましたし鉛筆が持てなかった当日は両手で鉛筆をもって事なきを得ました。

文章がうまくなるために考えたこと

ここまでが「文章力を維持する」になります。しかし、それでは文章はうまくなりません。つまり、維持でしかないということです。 うまくなるためには、文章の推敲も必要になりますし、もとより文章の記述量もそれなりにないといけません。こういったことから「文章がうまくなる」ためにクソみたいな文章を書き連ねることにしました。

そのうち上達するとは思っていません。なぜなら、だれからも突っ込みがないからです。仕事では得意先の反感やお怒りを買ってしまったり、メンバーからの不信感を持たれたり、上司から指摘や指導をもらったり…そのようなある意味で非常に恵まれた環境にあると言えます。しかし、いまはひとりです。 アクセス数というか記事のビュー数を稼ぐことなしに突っ込みはこないのです。 そこで、ひとまずは記事を増やす、全体的なビュー数を増やす、突っ込みを待つという方式がよさそうかなという結論に達したということです。

ということで、しょうもない記事を量産することにします。

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