「わたしはクィアのゆこ」の意味

私がネットで活動する際、最もややこしくて面倒くさく、またゼッタイに避けて通れない(だからこそ面倒くさい)話題が、自身の性別・性自認の話なのだ。まことに勝手な自意識過剰ながらも、私はこの問題のせいであらゆる制限を自身にかけ続けている。そろそろなんとかしないといけないーー
ということで、noteの長所「長い文章が書ける」を最大限活かし、この問題にがっぷり四つになってみたいと思う。よってこの記事は超個人的で超つまらないモノとなる。最後にある程度まとめてあるので、面倒くさい方はそこだけ読んで納得していただければ幸いだ。(でも、特によく仲良くしていただいている方々には、どうか全文読んでいただきたい。このnoteの大部分はそのような方のために書いているのだから……。)


性別を構成する3つの要素

話を始める前に、基礎知識をしっかり説明しなければならない。一部の読者には信じられないだろうが、性別を決定づける要素は3つもある。1つでも2つでもない、3つである。それらを私は「性自認」「性的指向」「身体の性」と呼んでいる。

性自認は、自身をどの性別であると自覚しているか、自身をどの性別として扱われたいかを指す。LGBTの中のT(トランスジェンダー)がこれにあたる。

性的指向は、その者の恋愛、性愛の対象がどのような性別の者に向いているのかを指す。LGBTの中のL(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシャル)がこれにあたる。

身体の性は、そのまま身体が持つ性的な立ち位置のことである。例えば体格、性器、ホルモンバランス、それらの要素も、性の問題には避けて通れないモノなのだ。

次の項からは、この中の性自認について少しずつ掘り下げていこうと思う。

男でもない、女でもない

結論はこれである。世界的にはLGBTQのQ(クィア)、日本ではXジェンダーという名前で知られているこの概念であるが、同じクィア、同じXジェンダーにおいても人それぞれ個人差というものがある。それについて記しておこう。

厳密にはクィアとXジェンダーは別の概念だ。それについて話すとまたややこしくなるので、だいたい以下のようなものとご理解いただきたい

  • クィア→既存のLGBT以外の者を広範囲に包括する概念

  • Xジェンダー→男女どちらでもない微妙な性自認を持つ中の、さまざまなパターン(中性、両性など)を包括する概念

さて、その個人差とはいかほどか。それを説明するには、Xジェンダーの中にある無数の分類を解説する必要がある。この記事はLGBTQの解説記事ではないので、なるべく簡潔に、3つだけ紹介させていただく。

1つは「中性」。読んで字のごとく、男性でも女性でもない、ちょうど中間地点に性自認を置く性自認のことを指す。しかし性別が無いわけではない。男性や女性のように(我々からすれば)極端な性でないだけで、彼らは彼らなりに、しっかり自身の性に自覚的である。(ちなみに「性別が無い」もちゃんとある。その場合の性自認は「無性」と呼ばれる。)

2つは「両性」。一般的な性を持つ方にはこれが一番理解に苦しむのではないだろうか。これも読んで字のごとく、「男性でも女性でもある」性自認のことを指す。正直私ですら理解に苦しむが、当人たちにすれば実に整合性のとれた事実なのだ。

3つは「不定性」。私はこれに当てはまるが、特定の性の間で自認が揺れ動く性自認のことを指す。「揺れ動く」のだ。0と1のように切り替わるわけではない。

上記の通り、私の性自認を無理やりカテゴライズすれば「不定性」となる。だが人間そんな単純なわけがない。次の項からはさらに微妙な、個人的な話に移っていく。

女の子はなんか違う、男の子はマジでやだ

前項で私の性自認を不定性と紹介したが、これはあくまで私個人の感覚的な話。だいたい中性から1、2cmくらい常に揺れているという程度なのだが、どうしてもこの微妙なニュアンスを伝えたかった。私は断固として中性ではない。
そんな揺れ動く性の間でも絶対的な感覚としてあるのが「女の子はなんか違う、男の子はマジでやだ」なのだ。女性として扱われるのもなんか違う、男性として扱われると露骨に拒絶してしまう。自分でもめんどくさいが、事実、そうなのだ。

その背景にあるのは、私が持つ身体の性と、特殊な家庭環境によるものであると考えられる。1つずつ紐解いていこう。

私は男性の体を持っていて、性的指向は女性だ(だがこれも普通の異性愛とは異なり、レズビアン的な感覚に近い)。「ゆこ」の名前からは想像もつかないほど普通の男声なのだ。声については一応「落ち着く」「眠くなる」と好評をいただいている。それでも私にとって男声は男声、身体と精神の乖離を決定づける1要素にしかならない。やだやだ。

性自認はどうしても身体の性に影響を受けるし、社会的な立ち位置も身体の性に依存する。合コンでは男性側に座るべきだし、レディファーストしろ!と言われたらするべきだし…。それに、リアルの友人らは私のことを男性だと思っている。だから、どうしても私が発する言葉にもそのような社会的立ち位置の影響が及ぶ。その影響を自覚するたび、私は心の中で「キモッ!」と感じてしまうのだ。おじさんっぽい感じ、なんかワイルドな感じがアレルギー的に自家中毒を起こすのだ。

この自家中毒の原因は多々あるが、その中でも象徴的なのが家庭環境、特に父の存在ではなかろうか。父のことを書くのはつらいが、避けては通れない。私はこの記事でどれだけ避けて通れないことを書いているのだろう…。

私の父は現在51歳。亭主関白で学がなく、マナーもモラルも持ち合わせておらず、自分の苦労を棚に上げまくり周りを見下しまくる、格闘技好きな拝金主義の自営業者だ。それでも一応自分で会社を立ち上げてひとりで全部回しているので、ある程度の社会的信用と収入は持ち合わせている。だが父は父、私を生み育てた張本人なのだ。会社1つの苦労ごときで評価はできまい。
彼はそのカスみたいな苦労を糧に私を罵倒する。具体的な話はXをさかのぼればいくらでも出てくるのでここでは省略するが、顔を殴ったりは常だった(そしていつも後になって「あれ本気ちゃうからな、2割くらいかな(笑)」と言う)し、今も私の大学の学費払ってるアピールと「だから辞めるなよ」の脅しが超怖い。はぁ...。
そのくせ妹には超甘い。典型的なパパ活のようなものと思っていただければ良いが、あらゆるものを買い与え、叱りもせず、短絡的な快楽を与え続ける。まるで堀込高樹の「涙のマネーロンダリング」の歌詞のような有様。車ハイエースだし。

そんなこんなで、いつからか私は、それが私にあるかに関わらず「父みたい」な要素にコンプレックスを感じるようになった。格闘技、ワイルド、茶髪、脂性肌、レッチリ…挙げればキリがないが、その中に「男性性」が入ることは確実だった。

さらに、当時メディアから流れていた「男はバカだから」というワードもつらかった。小学生のころ私をいじめていたのも主犯格は女の子で、男はその手先みたいだったし、どうしても私の中の男性性は、キモくて、ウザくて、非難されるべき対象に映ってしまうのだ。勿論それを物質的、社会的に持ち合わせてしまっている自分自身も、拒絶の対象となった。

なので、と言っていいのかは不明瞭だが、中学生の私は男性的な要素を極限まで排除し、女性的な要素を積極的に取り入れようとした。まったく無意識な現象だったのだが、その頃から男性性の拒絶をしていたことがわかる。

そして、そのうちに社会的な男の立場そのものにコンプレックスを感じるようになってしまったのだ。男側にクラス分けされたくない。男性性は非難され拒絶される。被害妄想のような、差別意識のような固定観念が今も私の中でハッキリ存在している。

さて、とはいえ大変残念なことに私に生理は来ないし声は低いし子宮も膣も持ち合わせていない。よって物質的にも実質的にも社会的にも、私は女性ではない。揺れ動く性自認の中で女性側に傾くことはあっても(むしろその状態がほとんどなのだが)、完全な女性には絶対になれないのだ。

まとめに代えて…「中間地点でも男or女でもない、中途半端な性自認」

ここまで読まれた方はある程度感じているかと思われるが、「男でも女でもない」のニュアンスは「男と女の間、または中間地点」ではない。むしろ中間地点より微妙に女性側に(憧憬的に)傾いた、中途半端な場所に、私の性自認は腰を据えている。さらにそれはゆらゆら移動しやがる。それが男性側に傾いた時、私は先述のトラウマによるアレルギー反応を起こす。
だから、私はこれまでも、そしてこれからも「クィア」を名乗るのだ。いくら体が男だろうが、声が低かろうが、私は断じて男性ではない。しかし悲しいかな、女性側に立つことは絶対に叶わない。そんな中途半端な、不純物満載の意味が、「クィア」にはこもっている。


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