「べき」に打ち勝つ
わたしのライフテーマの一つがたぶん「自分の中の『~すべき』に打ち勝つこと」なんじゃないかなと思っています。
こうあるべき、こうするべき。そしてそれを当たり前に固定し、他人の行動すらも縛り付ける。こういうことで人生失敗してきた気がします。
私は、10代本当に人とうまくやれませんでした。その原因が自分の中の信念にも近い「~べき」だと思うのです。
たとえば小学校の時の、近所の犬の散歩。犬は毎日散歩されなければならない、たまに散歩させてもらう。それでそのラッキーさを感謝すればよかったのですけど、そこで終わらせない私の中の「べき」。
「●●ちゃんが犬の散歩しないから私がしなくちゃならないじゃん!」みたいな発言をし出します。基本的に犬の管理の責任は私にないし、犬も一日二日散歩されなくても大丈夫なくらい自由に動き回れる長いリードに繋がれている。だから、散歩なんてしなくてもよいし、わたしに散歩させてくれていたとも考えられる。相手の優しさだったかもしれない。感謝していなくても、向こうのほうが一枚上手なので、感謝の言葉を言ってくれていたのかもしれない。
そんな大したことじゃないのに、大げさに人のことを批判する。批判する大義名分を持っていると思って、大手をふるって自分の行動に感謝を要求する。押しつけがましいことこの上ない。たいていこういうことで相手が思うことは「頼んでいないし、余計なお世話」ですね。この友だちとは次第に疎遠になりました。わたしの親切の押し売りがうざかったからだと思います。
そういう自分の行動を正当化しようとする言動、鼻につきますよね。それが原因で、まわりに嫌われていたんじゃないかと思います。自分がどこが嫌われる要因か気が付けなかったので、それが原因でもないかもしれないけれど。10代はずっとうまく場になじめない人でした。
いつもその犬の散歩エピソードを頭の隅に置いて、出過ぎた真似をしないようにしています。たぶん私が恐ろしく受け身になりすぎるのは、そういうところにあるなあと自分で自覚しています。そして、それもまた「べき」の一環。
どんなに効率が良くて、そうするものでも、結局はその人のチョイスです。わたしがその人を変えることはできない。こうしなさいとか、ああするべきとか、非難する権利ないんですよね。そして、今でも私の中に「~すべきだった」という後悔、「~すべきなんじゃないか」という葛藤がいつもいつも存在しています。
やればやったことを後悔するし、やらなかったらやればよかったと後悔。
何がベストかというのをそうやって、いつもいつも考える。自分の固定概念の普通こうすべきという気持ちといつも戦っている気がします。そして繰り返しながら思うのは自分がやりたいならやることにし、自分の行動は自分の欲望の結果の行為だから、感謝されなくてよいと割り切ることがベストかなということですね、今のところ。それが一番環境になじみやすい行動ですが、これができるようになったのは自分の哲学を磨きこめる年齢になってからですねえ。
それまでは、あれこれ失敗して、自分の美学を形成する糧とするしかないと思います。失敗は発明の母なり。
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