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気にしないのが一番だから|ショートショート #月刊撚り糸

――ニュウデン、ニュウデン

 自動着信になっている電話は、コールが溢れているためにすぐ繋がった。すぅっと一瞬息を吸い込み、澄んだ声で慣れた台詞を告げる。

「大変長らくお待たせいたしました。~~~~~でございます」

 歩佳(あゆか)が損害保険を扱うコールセンターで働いて4年になる。もともと大学時代にアルバイトで働いていたところへの出戻りだから、通算で言うともう6年だ。ベテランと呼ばれる域に達している歩佳は受電部隊ではなく、それぞれのチームを監督する管理部隊であるが、入電数が多い時間帯は受電に回ることもある。今はまさにその時間だった。

「おたくいったいどうなってんのっ!! さっきから電話ちょうだいって言ってるのに全然かかってこないじゃないっ!!」

 開口一番に怒鳴り声を上げた電話の向こう側に、歩佳は心の中で溜息をつきつつ、落ち着いた声で返答する。

「大変申し訳ありません。状況を確認いたしますので、お電話口の方のお名前を、フルネームで教えていただけますでしょうか」

 ちらりと周囲を確認するが、歩佳と同じ職責を担うSVは当然のように不在である。歩佳より上席の姿もない。つまり、炎上させてしまうと処理できないということだ。
 こういうときに限ってなんでこんなん引くんだ……と、またまた内心で溜息をつき、歩佳は時計を確認しつつ鑢(やすり)のような声に対して慎重に耳を澄ませた。怒鳴り声は心を疲弊させる。気にしない、気にしない、と自分に言い聞かせて感覚を麻痺させた。

***
 

 結局その電話対応には1時間かかり、他にも諸々の事案を処理する必要があったため、歩佳が退社したのは定時を1時間半過ぎてからだった。ロッカーから大慌てで荷物を取り出し、身支度を整える間もなくエレベーターに飛び込む。スマホの画面を開いて通知に返事を打とうとしたが、エレベーターの中は電波がないため、じりじりしながら1階への到着を待つこととなった。手持無沙汰の間にスマホのインカメラを見ながら前髪を整える。ごくごく簡単な化粧を施された目が歩佳を見返した。最近は朝化粧する時間すらも惜しい。

 エレベーターを飛び出して早足に駅へ向かいつつ、LINEの返事を打つ。

――ごめんね。残業してて、今から帰る。

 すぐに既読がついて返信が現れる。

――いいよ。今日はハンバーグだよね。楽しみに待ってる。

 きらきらとした絵文字に、内心で舌打ちが漏れる。待ってるんじゃない、ごはんくらい自分で用意したらいいじゃないか。
 まあ、今朝顔を合わせたときに、今夜はハンバーグだよと約束したのは自分だけれども。けれど残業はイレギュラーだしそんなときくらい……。
 そこまで考えて、歩佳は思考を止めた。気にしない、気にしない、と言い聞かせて家路を急ぐ。

***

 健吾は本当にただ待っていた。ソファの端にスーツの上下を放り投げ、風呂上がりの恰好でビール片手にゲームをしている。

「歩佳、おかえり。遅いから俺、先にシャワー浴びたよ」

 歩佳は通勤用の鞄を棚になおしながら、呟くようにごめんねと言った。ソファに投げ出された健吾のスーツをハンガーに掛ける。

「すぐにごはん作るから」

 歩佳がそう言うと、健吾はコントローラーを忙しなく操作しながら返事をした。

「あー、いいよ。先にシャワー浴びてきな。俺ゲームしてるしまだ待てるから」

 ありがと、とまた呟くように歩佳は言い、風呂場に向かった。ゲームをする健吾の姿が脳裏に焼き付いている。それに、散らばったスーツ、片付けられていない食器乾燥機も。その光景を拭い去るように、さっさと衣服を脱ぐ。
 この状況は今に始まったことではない、気にしない、気にしない、と自分に言い聞かせて、歩佳は超特急でシャワーを済ませる。

***

 シャワーを終えた歩佳がハンバーグとサラダを作り、2人がそれを食べ終えた頃には既に21時半を過ぎていた。洗い物をする歩佳を余所に、健吾はゲームを再開しつつ仕事の話を始める。

「今日さー、上司にめっちゃムカついてさー。――あっ、くそっ、ミスった」

 操作をミスしたのだろう、健吾は唸りぶつぶつと小声で文句を言って、それから続けた。

「んで、コバヤシもそこでなんにも言わねえから、俺がひとりで全部やることになってさー。その作業がー」

 だらだらと続く健吾の愚痴をBGMに、歩佳は淡々と洗い物を済ませた。軽くシンク周りを掃除してからソファに座り、乾燥した手にハンドクリームを塗る。ついでに先ほど塗るのを諦めたボディクリームに手を伸ばした。

「で、もう腹立ったから帰ってやった。そんでさー、そういうときは癒しが欲しいわけよ」

 健吾はいつの間にかゲームを終えていた。歩佳が背中に体温を感じた次の瞬間、腰に健吾の両腕が回る。

「待って待って、今ボディクリーム塗ってるの」

「だーいじょうぶ」

 そう言って、健吾は歩佳の首筋に唇を落とす。長い付き合いだから、歩佳は首筋が弱いということも、弱いところを攻めたら抵抗しなくなることも、よく知っているのだ。
 歩佳はボディクリームを諦めた。健吾の愛撫に身を任せながら、なにがだいじょうぶなんだろうと思う。次いで、癒し、の言葉が脳内をリフレインした。健吾の癒しがこれならば、歩佳の癒しは?
 好きで一緒にいるんだから、気にしない、気にしない、と、歩佳は鼻から甘えた声を出しながら心に言い聞かせて、健吾の欲を受け止める。 

***

 夜中、真っ暗になった天上を見上げながら、歩佳は隣で眠る健吾のいびきを聞いていた。うるさい、と思って鼻を摘まむけれど、そんなことでは止まないのがいびきである。諦めてベッドを抜け出すことにした。
 愚痴を言っても何にもならない、そんなことなら気にしない方がよほど楽だ。そう思って歩佳は生活しているし、それは何年も生きて来て確立してきた処世術のひとつである。
 けれどたまに――こんな風な真っ暗な天上を見上げるときや、自分のものでない呼吸音にペースを乱されたときに――、そうやって『気にされず』落ちていった感情はどこに行くんだろうと考える。実は歩佳の奥のどこかで生きていて、塊になって成長して、そのうち自分を中から喰らう怪物になるんじゃないか、と馬鹿げたことを想像したりする。
 だから歩佳は、ときたまこうしてベッドを抜け出す。そして、自分のテリトリーにひそかに隠したノートを取り出し、『気にしないことにしたこと』を書きだす。それは苦情の金切り声であったり、残業の後で作らなければならない料理のことであったり、自分のしんどさしか見ない同居人であったりする。気にしない、という信念自体を――そんな信念を持つ自分自身を――気にしないことにする。そうすれば歩佳の奥に落ちていった感情たちは塊になることなく溶けて、怪物にはならない。

 満足して、歩佳はベッドに戻った。健吾はまだいびきをかいているけれど、こんな状況には慣れているからそのうち寝つけるだろう。



 歩佳は明日も、気にしないで生きていく。結局、気にしないのが1番だから。

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七屋糸さんの企画に参加しています。
前回も書いたけれど、この企画とても楽しい。
みなさんがテーマをどんな角度で切り取るのか、とても楽しみにしています。
糸さん、いつもありがとうございます。

#気にしないのが一番だから


【あとがきに代えて】 
 気にしないほうがいいことは、世の中にたくさんある。
 けれど気にしてしまう自分がいるわけで、気にしないようにすることで精神をすり減らすこともある。言いたいことがあっても言えない人は余計そうだろうと思う。
 そんなときは、気にしないのが1番だという概念を気にしないことにしたい。いいこともわるいことも、それこそ『気にしないのが一番』だと思うから。そんな気持ちで、この作品を書きました。
 だれかの心に届くといいな、と願います。


読んでいただきありがとうございます❁¨̮ 若輩者ですが、精一杯書いてます。 サポートいただけたら、より良いものを発信出来るよう活用させていただく所存です。