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MEETING #09 三原寛子さんと、食にかぎらない〝消化〟の話 [音声データと、あとがき]

三原寛子(愛称・ミハ)さんは、料理ユニット「南風食堂」主宰。強い好奇心をエンジンに、〝食べる〟ことを通じて「この世界はどうなっているの?」という旅をつづけている人。

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数ヶ月前、彼女から「自分がそれを〝消化してエネルギーに出来るか?〟という観点で毎食を考え・食べる」と聞いた。そのフレーズがずっと残っていて、ミハにアユールヴェーダの話、中でも「消化」についてもっと聞きたくなり12/19にMEETINGの時間を持った。Podcastはこちら。

前半:61分
「いまどうしたいのかな?と、自分を見る機会がない」「食べた物が、ちゃんと出てくる身体が健康。未消化物が病気になる」「自分の適量をどう知ってゆくか?」「ちゃんと空腹になる分量が〝適量〟」など

話の中に出てきた「子ども哲学サークル」の〝対話のルール〟(いいね)
・耳をすます
・沈黙を歓迎する
・想像する
・答えはひとつでない
・心の変容を許す
・アイデアをつなぐ

後半:29分
「アユールヴェーダは、その人の〝幸せ〟のための健康法。〝幸せ〟を感じることが先」「〝健康で美味しい〟は、これまで仕事の何分の一かだったけど、その割合を増やしていきたい」

Apple Podcastはこちら。Google Podcastsは、Anchorの「MEETING」ページからどうぞ。

南風食堂 https://www.nanpushokudo.com
マハトチューニング https://mahat-tuning.com
財宝温泉水 https://www.zaiho.jp


では、あとがきを。

自分がTwitterを始めたのはいつだったかな? と調べると、2009年。二冊目の本を書き終えた頃で、そこにこんな絵を描いている。

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フォローするアカウントの数は絞ってきた。Facebookもやっていないし、テレビも20代から家にない。
にもかかわらず、心や頭に飛び込んでくる情報が多すぎるのか、ここ数年、自分自身が何を感じたり考えているのかよくわからないことが多かった。他でもない自分が、あの絵をなぞらえてしまっている。

それでまず1ヶ月ほど前、iPhoneの設定で大半のアプリの利用時間帯に制限をかけた。夜が静けさを取り戻した。

「自分がちょっとわからない(もうちょいわかりたい)」「自分と一緒にいる時間を増やさないといけない」という求めはさらにハッキリしたものに。そんな中、三原さんの「それを〝消化してエネルギーに出来るか?〟という観点で毎食を考え・食べる」という言葉をよく思い返すようになった。

〝消化〟の話を通じて、自分と自分のコミュニケーションを考え直したい。
いや「考える」でなく、「食べ方を変える」ところから具体的に再構築したい。意思なんて頼りになるわけないので、日々の習慣を変えてしまう方が効く。

本来自分はそんなはず、という思いもあった。最初に〝食べ方〟を強く意識したのは、30代前半に訪れた屋久島のある産院だったと思う。

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出産を迎える女性が長期逗留し、玄米菜食のご飯をいただきながら、草木の手入れをしたり薪を割ったり、身体を動かしてその日に向かう心身を整えてゆく助産施設で、あがた森魚さんのお母様(山縣良江さん)がひらいた場所だと後で知った。

一般宿泊も受け入れていたので、出張に一日加えて泊まりに。リードの付いていない犬がいたなあ。いい犬で、夕方散歩の道案内をしてくれたっけ。

晩ご飯になり、お腹の大きな女性数名と並んで食べ始める。味はあまり覚えていない。どれどれ、と美味しく頬張っていたはず。するとその山縣さんが私の前に腰を下ろして、「お箸は一口ごとに置く」と言いい立ち去った。

まあ叱られたわけだ。口の中にご飯があるのに、目や箸を持つ手は、次に食べるものを探って泳いでいたんだろう。
山縣さんはそのあと間も無く亡くなられた。でも彼女は私の中に内在化して、食べながらあのときを思い出すことが多い。そして箸が下りる。

こう思い返すと、さらにその2〜3年前に1週間の断食も体験している。会社を辞めて、人生をにリセットしたい気持ちが強かったときだ。

断食後の補食期間(食べる量や種類を2週間かけて戻してゆく。たいてい以前の摂取量より少ない分量で最適化する)を終えて入ったまちの定食屋さんで、焼きサバ定食を食べるのに80分かかった。当時「アグニへの供物」という概念はないが、急いで食べることを身体が受け付けない。仕方なくよく噛んで食べると、身体は平和で、脳はヒマそうにしている。

ともかくよく噛んで食べるクチだったはずなのに、最近、妻に「もう食べ終わったの? 早いね」と言われることが何度かつづいた。この二三年、とくに今年は多かったと思う。いつの間に早食いに戻ってしまったんだろう。脳の方が優位化している。


さて。わたしたちが日常的にくり返していること、物事に対する姿勢や処し方は、他の行動でも再生産される。「あまり噛まずに早く食べる人は、情報摂取(本を読んだり人の話をきくとき)においても同じく」ということになる。この図式については、フロムがもっと痛烈な書き方をしている。

〝現代人の楽しみとは、わくわくしながらショーウインドをながめたり、現金払いであれカード払いであれ、買えるだけの物はなんでも買うことである。そして誰もがそれと同じような目で人間を見ている。(中略)
 何もかもが商品化され、物質的成功がとくに価値を持つような社会では、人間の愛情関係が、商品や労働市場を支配しているのと同じ交換パターンにしたがっていたとしても、驚くにはあたらない。〟

『愛するということ』は1956年の著作。社会や人々のあり様は、それほど変わっていないんだな。

現代社会における人間の姿はおおよそ「働いている」か「お金を使っている」のどちらかで、日々ドリルようにそれをくり返している。そして後者では「たくさんの選択肢の中から、自分にとって最適でかつ損のないものを選んで手に入れる」ことを繰り返している。パン屋でも、携帯の画面上でも。

この消費行為のくり返しによって鍛えられたパターンは、物でなく人、恋愛や結婚のパートナーの選択時にも同じく作動する、というのがフロムの指摘だ。

それは、仕事や職場を選ぶ際にも同じく作動しやすいだろう。「自分に最適、かつ損のない」仕事や会社を選ぶ、という形で。

その何が問題?と思う人がいるかもしれないが、迷い箸を泳がせる食事中の私も、恋愛のパートナーを探している人も、自分の仕事を探している人も、共通するのは、意識が常に前傾的というか外向きというか、「なにを?」という対象に向かっていて、「それをどう食べるか」「関係をどう育むか」「仕事をどう充実させてゆくか」という、時系列でいえば少し遅れてくる局面への意識が薄い。

フロムの言葉で言えば、「誰と?」という対象にもっぱら気を取られていて、「どう愛するか?」「どう育ててゆくか?」といった人間的な〝技術〟への意識が足りない。愛はあらかじめあるものでなくて技術である、というのがあの本の主題だ。

食でいえば、「どんなものを食べるといいか」という情報や示唆はそれこそ最初の絵のような有様で、「季節の作物を食べよう」「オーガニックな食を選ぼう」「完全食といえばこれ」、あるいは「◯◯は食べてはいけない」とか。『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』って本もありますね。連日なにかしらの示唆が目に飛び込んでくる。

しかし例えば「オーガニック」な食事を、あるいは「科学的に証明された究極の食事」を、よく噛まず、飲み込むように食べている有様ってどうなの? と我が身を振り返るわけです。ここで食べ方と働き方の話が重なる。

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このMEETINGのあと、私はミハが池田早紀先生と開いているマハトチューニング・クッキングクラスの記録シートを頂戴し、一週間、食事の記録をつけて過ごした。シートの毎食の内容欄の上に「空腹:有/無」という項目があって、恥ずかしい話だけど、自分にはこれがすごくよかったな。

野口整体やいろんな食養法で何度も目にしてきた「空腹を覚えたら食べる(お腹がすいてもいないのに食べない)」「満腹にならない程度に食べる」ことを、あらためて身体でなぞらえる日々になった。ようやく自分の状態に敏感になっている。

アユールヴェーダの知恵の一つとして教わった「日の出前に起床する」もつづけてみた。絵本『よあけ』の世界が、少し早く起きればそこにあった。山あいの湖のほとりでも、都会の住宅街でも、夜明けは同じように素敵ですね。

いい調子。いい年の瀬になりました。