読み返しながら書かない

神山で一緒に働いている仲間が本を書くことになった。本人にとって初めての本。自分はどうだったかなと思い返している。

最初の『自分の仕事をつくる』は5年越しで書いた。34才ぐらいで書き始めて、書き上がったとき38才だった。
その間、ずっと書きつづけていたり推敲を重ねていたわけじゃない。お正月のまとまった時間に「書くぞ!」と取り組んだものの、あっという間に正月は過ぎて忙しくなり、原稿のことは一切忘れて働き、少し余裕が出来た頃「この土日に!」とまずは読み返してみるものの気持ちを辿れないというか、「なにを書きたかったんだっけ?」と迷子になって週末が終わり。夏休みが終わり。正月にまた一から書き直し。でも以下同様…、というのを3〜4回くり返したその先で、最後の正月にトンネルが貫通したんだ。

このときの書き方が不思議だった。文意というより音律で書いていて、たとえば「です。」で終わったセンテンスの次の出だしを意味合いであまり考えず、たとえば「とはいえ」と音が先に浮かび、それを打って、打ってみた言葉の後をついてゆくような書き方をしていた。
たぶん音楽に助けられていたんじゃないか。筆が止まると、そこまで書いていたものを読み返さず、プレイヤーの前に移動してしばらく音楽を聴いて、気分がよくなったらまた書くというのをくり返していた。

本を書き始めた同僚に、数日前こんなメールを送った。

「読み返さない」のは結構大事。何度も読み返しながら書かない。それやっていると永遠に時間がかかるし。まずある流れというかストリームを、不出来でもいいから書き下ろすことが大事で。調整はあとからいくらでも出来る。
以前、ソフィア・コッポラがインタビューで「お父さん(フランシス・コッポラ/偉大な映画監督)からなにを学んだか?」と訊かれていて、「なにか教わったことは一度もない」と述べたあと、「敢えて言えば〝脚本を書くときは途中で読み返さないこと。一気に最後まで書きなさい〟と教わった。アドバイスと言えばそれくらい」と語っていて、その通りだなと思います。

いや本当にその通りだと思うんですよ。読み返しながら書いてゆくと、面白い文章や、いい文章をつくることを意識してしまいやすい。
〝すごいもの〟をつくろうとしないで、すでに自分の中にあるものを、丸ごとドサッと「産み落とす」ことが大事だ。欠けているところ、偏っているところ、不完全さ、説明の足りない部分。そういうのは、必要ならあとで加えたり調整すればいいので、まずは竜を吐き出してみるというか。

書く作業って、吐き出すのに時間がかかるんだけど。

いま思ったんだが、まず語り下ろして、それを調整してみるやり方はどうなんだろう。「話すことは出来るのに文章で書くのが難しい」と思うことが以前よくあった。なら、まず目の前にぬいぐるみでも置いて、思うところを語り下ろしてみて、それをAmazon Transcribeかなんかでテキスト化し、素材化した自分の語りを作文調整してゆく書き方はどうなのか。椅子に座っている時間が少し短くなりそう。今度試してみようか。

いや、そうだ。緑内障で視力をだいぶ失った友人がいて、こないだ久しぶりに会ったときそういえばそんな話になった。彼の場合、1つの思考のパッケージがだいだい800字くらいだそうで、その単位で語り下ろし、録音データを渡してスタッフにテキスト化してもらい、最後に調整して原稿を書いていると話していた。

話が逸れましたよ。戻すと。まず一気に書き下ろすことが大事だ、と。書き始めると気になるのはおそらく文体で、たとえば文末を「です」「ます」で書くのか、「である」「だ」で書くのか。僕は文語体と口語体を混ぜてしまいがちで、「である」「だ」文章の中に急に「なんじゃないですかね」とか入れてしまうことが多い。

その良し悪しはともかく、語尾の調整もあとでやればいいんですよ。まずは、いま既に自分の中にあるものを、見た目とか気にせずドカンと外に出してみるんだ。自分以上のものはどうせ書けないんだから。

見通しの悪い世界で、懐中電灯どころか提灯の灯りでトボトボ歩いているような作業時間がつづく。足元しか見えていない感じ。でもそれでいいんですよ。いずれ夜は明けるので。振り返ってみれば、こんな景色や地形の中を歩いていたんだな、と全体を見渡せるときが来る。
で、足取りも決して悪くなかったことがわかる。自分の中には、自分でわかっているもの以上のものが必ず入っているから。始める前には知らなかった自分を事後的に発見することが、文章を書いたり、ものをつくることの喜びだと思う。