ポリコレどうこうの個人的まとめ

皆さんはポリポリコレコレしてるでしょうか。近年SNSやらなんやらでその手の話題が毎日の仕事のように繰り返され、人によってはそれに疲れ果ててしまっているようです。私は似非哲学に耽溺するのを趣味としているのでそう言うのを見るのが比較的好きな方ではあるのですが、かと言ってガンガンRTなりなんなりしてるとFF内へ徒に緊張をばら撒いてしまう所もあります。なのでこの記事に今の自分にとってのその手の思想を書き殴っておき、ひとまず吐き出したい欲を発散しておこうと思いました。今後また考え方が変わった時に、当時の自分を振り返る材料として面白いと言うのもあります。あと先に断っておきますが、私には高度な医学的知識のようなものは備わっていないので、有識者から見れば叩き放題な誤認ポイントも散見されると思います。指摘するぐらいで許してください。

立ち位置

基本的にこの手の話題はポジショントークに終止するのが宿命です。なんちゃら的少数者なら自身と同種の人間を弁護しないと立場に影響が出てきますし、逆に自分が多数派なら少数を気遣い余計な苦労を背負う事を良しとしないでしょう。なのでまずは自分の立ち位置をここに明示しておく事が、自身を振り返る上でも他の読み手が客観性を判断する上でも必要だと感じています。

端的に言えば、ASDの中でもかつてアスペルガー症候群と呼ばれたタイプです。肉体的な性別は男性、性自認は定義がよくわかってませんが、たぶんストレートです。異性愛者なのは間違いなさそうですが「性別や顔の良し悪しで人間を判断するやつはアホだし、最愛の人の性別や顔がある日変わっても特に気にするべきではない」みたいな道徳観があり、その思想を本能よりも重視するべきだと信じています。また、前述のように知的能力が高めのASDなのもあり、知性や理性に対し健常者よりも強い信仰心があります。本能に由来するような差別心の類は理性で抑えつける事を美徳とし、それができていないのは風呂に入らず全裸で外出しているも同然の恥だと捉えています。

性的少数者に対する考え

まず前提として、性別と呼ばれるものには「肉体の性別」「脳の性別」「文化的な性別」の3軸があると考えています。
肉体の性別は性器の有無やホルモンバランスによる体格や体質等の差異を指すもので、これは所謂「中間の性」や「性器の不完全な発達」が実在している事がわかっています。
脳の性別も前者の延長線上の話で、当然ホルモンの量や先天的なら何らかで「中間の性」あるいは「不完全な性」のような状態は「無い方がおかしい」と考えています(そもそも脳も肉体の一部ではありますが、ブラックボックスで確認できないと言う特性を踏まえて別の枠として定義しています)。人は思春期になって性のあり方やなんらやらを意識するようになると言う話ですが、所詮脳とは肉でできたコンピュータの一種なので、何らかの理由でその過程が変質したりすっ飛ばされたりする事は論理的に考えればあって当然でしょう。
文化的な性別は、過去の人間によって積み上げられていた文化と誤解の集積です。「ランドセルの色は黒と赤に分けろ」みたいな死ぬほどアホ臭いものから、「風呂は別々にしろ」みたいな今から調整するのが難しすぎるものまで色々とあります。いずれにせよ食い違いは起こるでしょう、上記2つよりも頻繁に。
自分は知性と理性を性別以上に信仰しています。なので上記3つの性差を「誤差みたいなもん、可能な限り無視するべき、できないものだけは合理的に対応すべき」と捉えています。ここで重要なのは「性差の無視」をどちらかを蔑ろにする事で実現するのではなく、どっちだろうと構わない行為を身につける事で気にする必要を無くすのを理想とする事です。例えば異性にベタベタと触るのは基本的に忌避される事ですが、これを無視すると言うのは異性にベタベタ触ると言う事ではなく、異性だろうが同性だろうが勝手に触ったりしない事を理想の手法とします。基本的にいずれかの性別の人が嫌がる行為は、別の性別の人にも一定数嫌がる人がいます。女性の顔を叩いてはいけないからと言って、男性の顔を叩いていいわけがありません。なので性別関係なく誰にも迷惑をかけないような振る舞いを目指す事が最も妥当だと捉えています。端的に言えば、相手を男性や女性としてではなく人間として尊重するべきと言う事です。その上で、体格や生理的な差による活動への影響が生じる場合には合理的に対処していければ良いという考えです。ただし、例えば体格の差は性別以外の要因でも生じるものなので、性別から切り分けて処理できるなら別の問題として処理するべきだと思っています。
肉体の性別については上記の方針で大体大丈夫だと思っていますが、脳の性別や文化的な性別はいくらか厄介な所があります。そもそも性差と信じられているもののうち、どこまでが脳機能の差異から生じている実在の性差で、どこまでが文化として信じられている迷信の性差なのか、厳密な所は誰にもよくわかりません。いずれは人類の科学的な理解が進めば明確な境目が見つかり、合理的に対処できるように環境が改善されていく事でしょう。それまでの間は一旦「どこまで本当の性差かはわからないけど、とりあえず誰も困らない形を目指していこう」ぐらいのスタンスで行くしかなさそうです。また、物理的に実在する脳の性別でない文化的な性別だからと言って軽視して良いかと言えば、思想信条の自由が憲法で保証されている以上は間違っています。理性の信望者である自分にとって文化的な性別は正直死ぬほどどうでもいいものではありますが、憲法に守られている以上は性別信仰も公共の福祉の範囲内では保証されなければなりません。結局は公共の福祉、個々人の自由を誰かに迷惑をかけない範囲内で最大化する事だけが物差しになります。
と言うわけでちょうどいい感じの妥協点がいるわけですが、ここがどうしても一人ひとりのポジショントークに終止します。肉体と脳の性別が食い違っている人は現行の公共浴場に対する制度に当然不満を抱きますが、普通を自称する人たちは自分の持つ「普通の生活」が侵されていると考え反発します。互いに自分の立ち位置から見た正論を繰り返すうちに「自分と話が合わない以上、相手は悪人で侵略者に違いない」と妄想を抱くようになり、挙げ句に◯◯党は悪の結社だとかLGBTは実在しないだとかの陰謀論に傾倒したりします。「ハンロンの剃刀」が一言で説明しているように結局は「互いの」愚かさや無知、その他諸々の弱さ以外に何も揉める理由は存在しないのですが、その辺りを自覚していない人間が多いので見るに堪えない殴り合いが永遠に繰り返されています。結局は私のように健常者より知的能力の優れたASDの新人類だけが正解に辿り着けるのです(ポジショントークによる妄想のわかりやすい例)

病気かどうか、治療すべきかどうか

先に言いますが、自分はASDなのでかなりそっち寄りのスタンスでここからの内容を書きます。
発達障害に関わらず障害関係に詳しい人が一度は必ず聞く格言に、「障害は社会的な障害」と言うものがあります。例えば視力が低い人は、原始的な社会なら狩りだとかの状況で明確な不利を背負う、あからさまな障害者だったでしょう。しかし眼鏡が普及した今、かなり極度に見えづらい人以外は障害者とされる事が無くなりました。また、今日発達障害とされるような人が困っているのは、現在の社会で要求される仕事の多くがコミュニケーションの要求されるサービス業のようなものである事に起因しています。もし中世のように一生を数キロメートルの円の中だけで過ごし、家畜と作物だけを鑑みればそれで十分ならば何も問題になりません。あるいは現代においても、親族経営の会社に縁故で入って得意なPC作業だけ一生担当するみたいな事ができれば手帳の世話になる事も無いでしょうし、何ならエジソン級でなくても天才ともてはやされるでしょう。かなり乱暴な言い方をすると、「世間の健常者が無能で無関心で発達障害に限らず障害のある人をろくすっぽカバーできないししないから仕方なく障害者やってる」って感じです(別に健常者を貶しているわけではありません。イーロン・マスクと比べれば大抵の人間は無能ですし、今の社会の状況的にどんな人間も疲れ果てて無関心にならざるを得ません。それはそれとして自分はナルシストなのでASDの人間の方が優れた存在であるつもりで生きてます、その方が健康に良いですし)。病気として扱ったり治療を目指すべきなのは、その症状が生きる上で不都合に働く場合です。そうでなければなにかする必要は無いですし、「発達障害なんて呼び名は間違いだ、発達多様性とか他の言い方にしろ」との言説も納得感があります。
性的少数者に関する問題についても、類似した所があります。理性の信望者たる自分にとっては性別に意味なんてものは特に存在しないのですが、面倒くさい事に社会が性別を前提として組み上げられてしまっているせいで、ところどころに余計な負荷がかかってしまっています。「性同一性障害」なんて言葉も、性同一性を担保できていない事が障害になるような社会があるから存在しているのです。全ての人間が自分のように本能を軽視するたちだったら、別にどんなジェンダーを抱えていても問題にならないので障害にはなりません(ただし人類は滅びます)。
ちなみにLGBT関係のあれこれの人間がジェンダーを先天的で治療不能のものと位置づけようとしている様子を見かけますが、これについては懐疑的に思っています。歴史を見れば日本を含めた国で同性愛が大名や聖職者の間の文化になるような事例があり、またある種の特殊な性愛(無機物性愛とか)は幼少期の虐待に起因するらしいとの話もあります。以上を踏まえ、少なくとも性愛に関しては後天的な矯正が可能なのではないかと予想しています。もっともそれには強い精神的な負荷がかかるので、気軽に処方箋を出したり個人が勝手に治そうと試みるのは明らかに誤りでしょう。そう言う意味で「治療すべきでない」のは間違っておらず、とりあえず頭の悪い人に理解させやすいよう「治療できないと言う事にしておく」のも一つの戦略なのかもしれません。自分の「性別は理性より下位のレイヤーのもの、極力無視するようにするべき」と言う思想も、この辺りの認識を踏まえた価値観になります。

誰を優先すべきか

少数者である事で困ってる人がいること、少数者の面倒を見るほど余裕がない人がいること、どちらも事実です。ではどちらを救えば良いのでしょうか。もちろん両方です、しかし資源には限りがあります。
例によってポジショントークにはなりますが、個人的には現在進行系で苦しんでる方を救うのを優先して、一旦今まで平穏だった方には少しぐらい我慢してもらうぐらいがバランスとしては丁度良いと考えています。理由として、まず「一方を救い一方を見捨てる事で出てくる問題」は、実際に一度見捨ててみないとどれぐらい生じるかわからないと言うのがあります。よく「性的少数者に配慮すると多数者が困る、人類が滅ぶ」みたいな主張がなされる事がありますが、それを理由に現状維持を続けていれば改善策の導出に必要なテストケースを永遠に得られなくなってしまいます。総合的にマイナスになる可能性があったとしても色々と試行錯誤するのが最終的には一番でしょう、別に一度の爆発で数万人死ぬ爆弾でも無いんですし。あるいは性被害がどうだみたいな事も生じるかもしれませんが、現在進行系で不都合にあって自殺したみたいな事例が起きている以上、留まる理由としては不足です。次に、試しにでも状況を変える意志を見せてくれれば、それ自体が一つの希望になると言うのがあります。たとえそれで全部がよくならず、結局元の鞘に戻さざるを得なくなったとしても、今後とも改善策が見つかり次第新たな施策が行われるだろうと思えれば、ずっと良いです。そして最後に、既得権益にズブズブ浸かって保身の為に現状維持を続ける態度が単純に卑怯くさくてダセえと言うのがあります。スクラップアンドスクラップ。

創作への影響

よく「ポリコレが創作をつまらなくしてる」「ポリコレの圧で創作が歪んでる」みたいな言説があります。が、個人的にそう言うのは全く的はずれだと思ってます。まず、ポリコレに創作が悪影響を与えるとすればそれは世界観やシチュエーションの違和感になるわけですが、自分のような理性の信望者からすれば「ハンバーガーの包み紙が笹の葉だった」ぐらいの違いでしかなく、笹が嫌いでたまらない人や笹にアレルギーのある人ぐらいしか困らない話です。そして代わりにハンバーガーの包み紙が嫌いだった人やアレルギーだった人が救われているわけです。もちろん笹の風味がハンバーガーに移るので若干味は変わりますが、もし料理人にプロ意識があるならばちゃんと笹前提の味付けに調整して仕上げてくるので問題にならないでしょう。ポリコレで作品がつまらなくなったと感じるのであれば、それがハンバーガーの調整不足でなければ笹の方のアレルギーだった、つまるところ視聴者が差別を制御しきれるだけの能力を持っていなかったからです。そう言う時は自身の道徳の未発達を惜しみ、ポリコレ修行を経てすべての作品を楽しめるようになれば解決しますし、建設的です。続いてポリコレが作品を歪めるような圧があるとの見方について、そもそも優れた創作をする人間は往々にしてこの程度の小さな外圧を苦にしません。むしろ「男性・女性以外の性別」を新たな物語の道具として活用できる社会になった事は作品のデザイン空間を押し広げており、プラスに働いているとすら言えるでしょう。これは創作ではなく自然科学分野の話になりますが、性的多様性の認知が広まった事で今まで稀な例外として無視されていた「人間以外の動物の同性愛」が実は生態レベルの頻度で存在しているらしい事がわかってきたみたいな影響もあります。新しいオモチャがあれば積極的に遊びたがるのが研究者やクリエイターと言う動物です、何も作品を作らず政治トークに興じる人にはその辺りがわからないのかもしれません。また、差別的な物言いにはなりますが作品づくりを生業にするようなナード側の人間は本人が少数派側に所属している事が多々あります。つまり嫌々ポリコレ要素を取り込んでるのではなく、本人が自分で必要性を感じてやってるケースの方がむしろ多いのかもしれないのです。このあたりどうやって統計をとればいいかわからないので確かな事は言えませんが、まあ諸々の陰謀論よりはこっちの説の方がまだ信憑性があるでしょう。

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