太宰治『駆け込み訴え』

今までの人生で読んできた小説の中で、1番は何かと問われれば、基本的にはこれを挙げることにしている。大真面目に考えれば、1番なんてものは流動的で、考え方やら着眼点、その日の気分なんかでいくらでも変わってしまうのだけど、もうこの作品に関しては「1番だということ」にしてしまっている。

この短編に最初に出会ったのは中学1年生の時のこと。所属していた部活で3年生の先輩がこれを発表していたのだ。(ちなみに私も自分が3年生になった時、発表する作品に選んだ。なので冒頭1ページ半位は今でも暗唱できる。多分。)

この短編は作者太宰が語ったものを傍で当時の奥さんが書き取る、口述筆記のスタイルで作られている。作品自体もある人物の独白のみで構成されている。創作のスタイルと中身がピタッと一致している。
声に出して読んでみても、とても小気味良い。平易な言葉ではないし、馴染みない固有名詞も多いだろうけど独特の揺らぎがある。

最初から最後まで突っ走る一人称の独白。これに中学生の私も今の私も酷く共鳴してしまう。
人を好きになるということは、決して綺麗なことではなくて、物凄く汚い部分を含んでいる。

勝手に好きになっては、勝手に崇め奉り、勝手に自分だけのものだと思い、勝手に失望する。
そんなことを勝手に繰り返す。
心の底から愛しているあの人は、どんなに全ての物を捨てて愛したとしても、自分を特別には見てくれない。人の気持ちというものはそんなに単純なものじゃない。気持ちというベクトルはいつだってチグハグだ。
自分が愛してるようには愛してくれない、だなんていう簡単なことで、愛してる相手の嫌なところが途端に目立ち始める。もう特別な感情を持つのをよそうと思う。そんな時に限って、まるで唯一の理解者であるかのようなことをその人は言う。世界中の誰になんと思われようと愛してる人に理解してもらえれば十分なのだから、また愛してしまう。
そんなことを繰り返し続ける。

愛憎は信じられないほど有機的に繋がり合っていて、分かちがたい。さっきまでは命を賭してまで愛するつもりだったのに、今は大嫌いで、何故嫌いかを考えることは何故大好きなのかを考えることにほかならなかったりする。しまいには何考えてるんだかわからなくなる。
人を好きになるなんてそんな我儘なことだ。

『駆け込み訴え』の独白は、そんな人間の汚い部分があまりに素晴らしく纏まっていて愛さずにはいられない。

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