明後日に会えたら ~随筆・福永祐一厩舎開業によせて

――今から45年前、1979年の3月4日。この日のメイン・レース、毎日杯の最後の直線。
前を走るハクヨーカツヒデの鞍上の落馬を認めたマリージョーイの鞍上は、外へ手綱を引いた。が、その方向へ落馬した斉藤博美騎手も転がってくる。それを更に回避しきる術など、恐らく誰にも無かったのかもしれない。

時間よ、止まれ――誰かはそう念じたのだろうか。
いずれにせよ、その数瞬後には、落馬事故は単独事故ではなくなっていた。

――その時、「天才・福永洋一」という時計は、永久に止まった。

Avant

はじめにお断りしておくが、この文章を書いている時点で私は先日刊行された福永騎手の著書『俯瞰する力 自分と向き合い進化し続けた27年間の記録』を一切読んでいない。それはこのタイミングに合わせてこれを表に出すにあたり、3日間で読んで咀嚼しきった気になるのは非常な無礼であるという思いがあったこと、また「騎手・福永祐一」から「調教師・福永祐一」への変わり目に思いを馳せるにあたり、「その時の自分がどう思っていたか」を書いておきたかったからだ。以上の理由で、あえて『俯瞰する力 自分と向き合い進化し続けた27年間の記録』には手をつけずに今思うところを綴ったということを、先に進む前にご理解いただければ幸いである。

頼りない記憶

「福永祐一騎手」に最初に惹かれたのはいつだっただろうか。少なくとも、ワグネリアンや*ミスターメロディやコントレイルが出てくるよりは大分前だけれど、一つ言えることとして特定の騎乗に惹かれて入口に立ったわけではない。ただ自分でも気づかないうちに「その場所」に立っていた、それだけが事実としてある。

そもそも率直に言ってしまえば、自分が何に惚れ込んで福永祐一騎手に惹かれていったのかすら今となっては思い出せない。というより、特定の何かがきっかけではなかったのではないかとすら思える。しかしながら、その最初の方の段階で改めて「福永祐一」という人間をより深く知ろうと思った時、そこに「天才・福永洋一」が常について回っているような気がしてならなかったことを、私は今でも忘れ得ない。

その感触を体感してから、恐らく10年は経っているのではなかろうか。10年というのは長い時間だ。今から10年前といえば、ちょうどジャスタウェイが壮行戦とも言うべき中山記念をきっちり勝った頃。そのジャスタウェイから既にGI勝ちのある後継種牡馬が出ているというから十年一昔とはよく言ったものである。あの頃もう1年入学を待った方が良いんじゃないかと言われていた150cm足らずの少年が、今となっては史上最年少の関東リーディングジョッキーなのだ。時間の流れというのは恐ろしい。

――閑話休題。ともかく、私が見る「騎手・福永祐一」は、本人の望むか否かはともかく常に「天才・福永洋一」という陰を持っていたように思える。デビューしてから、否騎手という道へはっきりと歩き出した瞬間から、彼は「福永洋一の息子」であり続けた。「武邦彦の息子」という表現は廃れたような気がしないでもないが、「福永洋一の息子」という表現は未だに幅を利かせているような気がするし、そうでなくても福永騎手を「二世騎手」と認知している人は武豊騎手のそれより相当多いのではないだろうか。

若き日の当人は「最後まで『洋一の息子』で良いとも思う」と言っていたらしい。が、それは果たして当時からの本心だったのだろうか、と今これを書きながら少しだけ考えている。一つだけ言えるのは、その疑問へ深入りすることそのものが、ともすれば両者に対する冒涜になってしまわないかと思ってしまうということ、それだけだ。

数年経っても影は消えない

1年前のことを思い出してみよう。

あの日、福永騎手は言った。「27年、こんな親不孝は無いなと思いながら続けてきた」「長きにわたった親不孝を終えることが出来た」――と。

その言葉に嘘偽りは無いだろう。福永騎手は27年もの間にわたって、「悲運の天才・福永洋一」という消えない影法師を背負い続けてきたのだ、とその時私は改めて認識した。27年と言うのは簡単だが、それは一人の人が生まれて成人してもなお余るような長い時間なのだ。その上へもってきて騎手としてのキャリアを「親不孝」と表現することにどれほど思うところがあったのだろうか。私には到底測れない。測ろうとすることすら不可能だと思っている。

そもそも――父のことに比べてこのことは割合語られない気がしないでもないが――福永騎手は1999年の桜花賞で初GI勝利を果たした翌週、よりにもよって師匠の北橋修二師が管理していたマルカコマチで落馬事故に見舞われ、左腎臓を摘出するほどの怪我を負っているのだ。幸い夏には戦線に戻ってきたが、もし事故の内容が悪ければと思うと記述を眺めるだけでゾッとする。

そんなように、福永騎手はずっと「悲運の天才」という影法師を背負い続けてきたのだと思う。だがここで問題なのは、それはただの「未完の大器」ではなかったということだ。リアルタイムで見ていたわけではないものを神格化しているというお叱りを受ける可能性を承知の上で言うなら、的場均師が「武君は上手いけど福永さんの『天才』には及んでいない、比べるのが可哀想」とまで言ったことは誇張とも何とも思わない。19頭立てのクラシックであの進路を抜けてこられる騎手はそうはおるまい。「『悲運の天才』の息子」というのは、ただの「『未完の大器』の息子」とはわけが違うのだ、と私は思っている。

天才?秀才?関係無いだろ

「最後まで『洋一の息子』で良いとも思う」と福永騎手が語ったのは2年目の秋、まだGIどころか重賞すら勝っていない頃だった。それから半年少々で有力馬の鞍上として駒を進めたダービーで完全に青さを露呈してあんな結果を招いた辺りでは、というかそれから少なからずの間は、その称号は単に揶揄の道具でしかなかっただろう。

記憶に新しい話では、ジェラルディーナが福永騎手騎乗で小倉記念で3着に敗れ、続くオールカマーとエリザベス女王杯を連勝した時に安藤勝己元騎手が「先入観を持たずに一流が感性で乗った方が良いタイプなんだろう」というような発言をしたことで波紋が広がっていて、特に福永騎手が好きな人からの反発や、福永騎手を腐したい人の曲解が非常に多かった覚えがある。

「福永洋一の息子」という称号はその父を踏まえた必然的な帰結として「理屈で説明出来ない尖った感性を持つ理解不能の天才」という性質をも内包していることを期待されていた時期が少なからずあったように思える。ただ福永騎手は、少なくとも晩年を見ると「緻密な事前準備に基づいたゲームプランをスムーズに遂行する」というスキルに長けていた印象があって、父のような「言語化不可能の天才」とはまた違った大器である気がする。

安藤元騎手の言葉は結局のところ「福永騎手がジェラルディーナに合うタイプではなかった」ということなのだろうと思うし、実際私もそれを否定する材料は無いに等しい。そうでなければGIを前にして「教えて!福永先生」なんて企画で10分以上も喋れないだろう。あれだけのプランは崩れた時のリスクも大きい諸刃の剣だ。少なくともジェラルディーナに関してはそのミスマッチが顕在化していたということだろう。だから私はあの時安藤元騎手の言葉を使って福永騎手にどうこう言っていた人間には何とも思わない。結局それを否定する材料も無いし、「そうだとしても応援している」の一語で終わってしまう話だからだ。

では福永騎手は結局「感性の天才」になれぬまま、「福永洋一の息子」でしかないまま鞭を置いたのだろうか?――その問いには、私は「絶対に違うと思う」とはっきり答えたい。

それは、ただ父の成し得なかった1000勝やらダービー制覇やらを達成したという記録上の理由からではない。確かに福永騎手は「天才」ではなかったかもしれないが、「天才」との違いを自分を磨き抜くことで埋めようとし続けたのは間違い無いだろう。だからああやって緻密に展望を語ってそれを実行しようとする「努力の大器」となり、40代から日本ダービーを3勝するような記録を残せたのだと私は思っている。そこに天才も秀才もありはしない。紆余曲折などという言葉では済まされないほど色々な出来事があったけれど、ただ積み重ねた実績が「騎手・福永祐一の円熟と大成」を物語っているのだ。それは絶対に、「福永洋一の息子」という看板一つに矮小化してしまえるようなものではないはずである。

福永騎手が父や武豊騎手のような――この二人ですら同じ領域には並べられないかもしれないが――「一握りの天才」ではなかったとしてもそれはベクトルが違うだけで、間違い無く彼は「一握りのトップ」だったのだと、実績を並べるまでも無く私は信じてやまない。

「Hello. 未来はどんな色?」

この間サラブレッドオークションを見ていたら、「ゲンパチプライド」という名前が目に入った。言うまでも無い、かどうかは分からないが、福永騎手が最後にJRAの競走で騎乗した馬だ。それを見て私は得も言われぬ哀愁に駆られた。一年も経てば物事はいかようにも変わってしまうのだ。

かと思えば、「福永祐一騎手」にとっての正真正銘最後のパートナーとなったリメイクは今年もサウジアラビアに飛び、今年は川田将雅騎手の手でタイトルを手にしてみせた。まずは無事にと祈りを込めたあの夜がもう一年前なんだなあ、という強いノスタルジーがその勝利を見て胸に去来していた。

「福永祐一調教師」の門出を待ち遠しく思って早一年、思えばこの一年は長くもあり短くもあった。しばらく呼び慣れられないであろう「福永祐一厩舎」には楽しみが一杯ある。デュアリストやエクロジャイトのような転厩組をはじめとした即戦力もそうだし、まだ競走年齢に達していない馬に目を向ければ、前田幸治オーナーが「最大の開業祝い」と称した*コンヴィクションIIの仔や牝系とのマリアージュに大いなるロマンを感じるヘイローフジの仔といったコントレイル初年度産駒をはじめとするホープたちが多く控えている。それはもちろん実績もあろうが、折から各方面で調教師としての適性を見込まれていたことも無関係ではあるまい。

先に「『福永騎手』は『天才』ではなかったかもしれない」と書いた。が、それを埋めるために血の滲む研鑽を重ねてきた福永師の培ってきたものは並大抵の他人では追いつけないほどに積み重なっていることだろう。それはある種、「説明不能の天才」と別のベクトルに伸びようとしたからこそ養われた能力かもしれないと思う。騎手時代からあれだけのプランニングをテレビカメラに向かって話せていたあの人のこと、ともすれば騎手としては頭でっかちが過ぎるとすら思えたその思考は、調教師としては活躍馬を送り出す大きな活力となってくれるだろうという気がしている。

この文章のタイトルは、私が大好きな楽曲の大好きな歌詞から拝借した。その曲について、作者の方がかつて「僕らがおじいさんになって、自動車とか自販機とかを『そんなものあったなぁ』って懐かしむ時代が来ても『僕はまだまだ研究中』って、言えたら良いなぁと思って作りました」と語っていたことがある。

福永師に目を向ければ、キングヘイローもラインクラフトもシーザリオも、ワグネリアンすらもうこの世を去り、あのアメリカンオークスが開催されたハリウッドパークも今は無い。引退式の時に見た北橋師は矍鑠としておられた印象だったが、それだけにその北橋師より1歳若い瀬戸口勉師が既にこの世を去っているのはつくづく残念でならない。時の流れと物事の成り行きを想うと本当にこういう時に無力を感じてしまう。

そして福永師が定年を迎える23年後、「福永祐一騎手」の乗り味を知る馬は何頭生きているか分かりやしないし、コントレイルだって怪しいかもしれない。けれど、それでも福永師はいつの未来になったって「まだまだ研究中」でありそうだと思えるのだ。私は恐らく「福永祐一というホースマン」の「その部分」に知らず知らず引き込まれていたところが大きいのだろうと思う。

だから、その未来の1ページ目に対して伝えることはもう決まっている。

――さあ、福永師よ、馬たちよ。
――ダルい金曜日に急展開、そんな週末をずっと描いていってくれ。
――魔法みたいな光景が当たり前になっていく、そんな世界へ僕たちをいざなってくれ。

――こんな言葉を、もちろん無事への祈りも込めて、明後日に会えたら話そうかな、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?