金の使い方を知っているなんて奇跡だぜ

あけましておめでとうございます!

初詣行きました?
お雑煮食べました?
福袋買いました?
僕は仕事でした!

今の自分がしている、生きる為の仕事を続けてもう8年になる。
脊髄反射で出来てしまう仕事だからこそ、そこに感動も苦労も正直ないが、確実に保証された給与だけはそこに存在する。

金の価値は過程がどうであれ不動だが、手にした人間側としては過程によって重くも軽くもなる。今日何となく思ったことに「人から貰ったものは大切にできないが、自分で対価を払ったものは大切にできる」というのがある。これは自分の場合事実で、手に入れる過程も含めて自分のものでないと大切にできないのだ。同じように、自分が脊髄反射で出来てしまう労働に対しての対価というものは、脊髄反射で使ってしまうことが多い。
なんとなく、ふんいきで、めんどうで、みたいな場合がそうだ。

なんとなく、組む予定もないプラモデルを買ってみる
ふんいきで、特に欲しくもないが金を払ってしまう
めんどうで、帰りに晩飯を食って帰ってしまう

これらはすべて、特にコンセプトも無く生きる金には困っていない人間がやる贅沢にすぎない。

松谷という人間は裕福な家に生まれた三人兄弟(長男・長女・次男)の長男で、自分の育った環境がどれぐらい恵まれていたのか、上京後に一人暮らしを始めたアパートの風呂桶で自分の足が延ばせないことを不思議に思った時に初めて気付くぐらいの大馬鹿者だ。

だから、自分の為の快楽や慰めにばかり金を使い、時間も情熱も無駄にしてきた自覚がある。

今でもそれは完全に抜け切れてはいないが、去年は自分や友人、尊敬する人の活動に対して使うようになって確実に無駄は減ったし、彼ら彼女らから得るものが自分の企画の活動源にもなった。
脊髄反射で得た労働対価であったとしても、それをどう使うかで新しいコンセプトを得る事ができるのだと、何となく実感を得ることができたのだ。

これは乱暴な言い方をすると「仲良くなりたければ金を払え」なんだけど、自分が価値を認める物や者に対しては、それが一番誠実だと思う。

けどこの思考に至る一番古い記憶は、大分昔のコミックマーケットでの柳英一朗君とのやり取りだったと思う。

柳「CDができたから貰ってくれ!」
松「払わせてくれ!」
柳「貰ってくれ!」
松「払わせろ!」
柳「わかった!」

それより前にも、松谷が自炊したお好み焼きのたねを勝手に冷蔵庫から出して、勝手に焼いて、勝手に食って、勝手に代金を置いていってくれた。

こうして手に入れた実感があるから、自分が本当に価値を感じるものに対してはこれからも、絶対に貰うことはないと思う。

だけどこれを貫くとなると価値を感じない、よくわからない物については素直に受け取ってしまいそうだから、ちょっとまだ困っている。

これに関しては対応策を考えているが、同時に募集中でもある。

親にして貰いたかったいくつかのことを、友人に与えてもらえている僕は幸せ者だ。

2019年

お金と愛を循環させて、皆で幸せになろうな!!

晩飯抜いて歯を磨いている最中、腹がぐーぐー鳴ってたけど
なんだか今日はちょっと嬉しいんだぜ!!

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