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「AIに仕事を奪われる」なんて嘘っぱちだ

時は19世紀。

日本では皆さんご存知、明治維新が起こり、そこかしこで、ちょんまげがスパンスパン切り捨てられた。

その少し前、イギリスでは産業革命が起こり、人の働き方に大きな変化が起こった。

明治維新といえば、日本史の授業で習ったことを思い返してみると、「薩長同盟」とか「大政奉還」とか、いかめしい人たちの話ばかり。

だけら、なにやら政争や政治システムの話というイメージが強いかもしれない。

しかし、同時に、民衆の中にも「働き方革命」が起こっていたことに気づくことは大事だし、それは現代の僕らの生き方にもつながっている。

たとえば、動力の技術が西洋から伝わり、次第に汽車や自動車が普及したことは、現代の移動手段に直接つながっていることとして、想像に難くない。

そうした変化の中で、それまで大八車を引いたり、お偉いさんを載せたカゴをエッサカホイサカ運んでいた丁稚(でっち)の働き方は、次第に淘汰されてしまった。

このとき、もしかしたら丁稚は「俺っちの仕事がなくなるでやーんす!」と、ぷんすか怒ったかもしれない。

では、丁稚のために車推しの仕事を残し、機械化を制限した方が良かったか?

否。

今だから言えることかもしれないが、丁稚に、これから機械化がどんどん進んでいくことを前提として、新しい働き方や、ひいては生き方を考えてもらう方が、よほど建設的だ。

そのひとつの形が、四民平等。

みんな平民として平等に生きることだったはずだ。

ところがどうだ?

僕がここで特に話題にしたいのは、【それまで機械の代わりに消耗させられていたことに怒った丁稚はいなかったのか?】という疑問だ。

厳密にいうと、「機械化」という概念が明らかになるまでは怒りようがない。

誰も、人と機械の違いはおろか、「機械とは何か」ということすら知らなかったのだから。

問題は、情報が伝わり、世間に広まったとき。

たとえば、『この世界のどこかに「機械」という恐ろしく便利なものがすでに発明されているらしいぞ…』と、方々で噂されている状況下。

ちょうど機械が人に操られるのと同じ構図で、人が人によって操られているということに、気づいてしまったとき。

「あちきは機械ではないでやーんす(ぷんすか)。あんまりこき使われたら、ちゃんと壊れるでやーんす(ぷんすか)」

今や21世紀。

「AIやらロボットやらが人間の仕事を奪う…」と何やら囁かれているが、話の構造はやっぱり同じだと思う。

僕らは、頭が擦り切れ、やがて精神をむしばまれるまで、ルーチンワークに追われている。

それは、往々にして、一企業や、その中のさらに小さな集団の利益を守るため。

つまり、僕たちは、個人の自由や時間を集団に捧げることで、金銭や尊厳のようなものに変換して、ようやく生きている。

比喩的な表現だが、個人がコンテンツとしての価値を発揮しようとした時に、企業というプラットフォームに手数料を持って行かれてしまう。

ひどい場合は、プラットフォームの規格に合致しなければマネタイズすらできない。

集団に抜かれている手数料は精神的なものが多いからプライスレスだ。

比喩を重ねると、たとえばTポイントをわざわざ現金化してからショッピングに行くようなまどろっこしさがある。

それもあって、昨今ではタイムバンクのように、個人の自由や時間のポイントを、そのまま金銭として循環させるシステムが流行しているのだろうと思う。

ただ、企業や集団のトップからしてみれば、人が人を操る構図を否定されてしまえば、賃金の対価としての労働力を刈り取る大義名分が失われてしまう。

これを逆の立場から言えば、部下(人)が上司(人)や上役(人)に、これまで通りへいこら使われることに甘んじる、その理由や動機がなくなってしまう。

これはチャンスだ。

人は、自分のかわりにロボット(機械)やコンピュータ(機械)にお願いして、作業の自動化をすればいい。

そして、心身ともに疲れから解放されるよう、上手に休めばいい。

「AIに仕事が奪われる」なんて嘘っぱちだ。

いままで奪われていた自由や休息を、いまこそ取り返す時が来た。

そして、自由な時間のなかで、自由な意志をもって、本当にやるべきことこそが、新しい「仕事」ではないのか。

近代初期の「機械化」にできなかったことが、現代の「自動化」にはできるかもしれない。

それこそが、この100年あまりを経て、ようやく人が勝ち得た知恵ではないだろうか。

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