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病歴⑭:抗がん剤治療3クールから4クール

朝8:10頃から、病院の受付が始まる。
自動受付機の前に並んだ行列が、ゆっくりと動き始める。
機械に診察券を挿入し、ディスプレイに並んだ本日の予定を見て確認ボタンを押すと、予定がA4の紙にプリントされる。
その予定と診察券を、所定のクリアファイルに挟んで、化学療法室に向かう。
化学療法室が開くのが、8:15分過ぎ。8:30よりは前。
体温、体重、血圧を測定し、一週間の状態を問診表にチェックし、採血をしてもらう。
化学療法室の看護師さんたちが今日の状態や今週の様子を確認し、医師に伝えたほうがいい内容を整理してくれる。
9:00頃から医師の診察を受けて、その日の血液検査の状態に問題がなければ、再び化学療法室に戻り、抗がん剤治療を受ける。

ベッドに横になり、腕を温める。
その日、採血したのとは別の腕の手首から10cm以内の範囲が、抗がん剤の点滴をする場所だ。
もしも私が動いても、肘よりも前腕のほうが、針が血管を傷つける可能性が低いから、と聞いた。橈骨そのものがギプスのように固定してくれるから。
その代わり、肘から採血するよりもぐっと深く、針を差し込まれる感覚がある。刺さる痛みをしっかりと感じる。
看護師さん達も慣れたもので、やり直しになったのは、全6クールの中で1回ぐらいだった。
ガムテープほどの幅がある透明のテープで、針を上から押さえて、更に動きにくいようにして、準備完了だ。

最初に、アレルギー反応をおさえる薬を入れる。
血管の中に、ぐっと液体が入ってくる感覚がする。冷たいような、粘度が違うような、圧力を感じる。
やがて、口の中にほわりと薬品のにおいを感じる。
自分の身体の中に薬品がめぐり、ゆきわたるのを感じる瞬間だ。
そして、眠気が訪れる。
点滴は、2剤のときが2時間半ぐらい、1剤のときが2時間ぐらい。
9時半ぐらいから始まって、2剤の時は12時頃に点滴が終わり、眠気や吐き気がおさまって、立ち動けるようになるのが13時頃。
1剤の時も、12時になったら起きようと思うのだけども、なかなか目が覚めなかったり、起きても気持ち悪かったりして、それより遅くなることも多かった。
きっと、いびきもかいたんだろうなぁ。

抗がん剤のなかのアルコールとヒスタミン剤が眠気や吐き気のものだと理解して、点滴の後はなるべく水分を摂るようにした。
飲酒したときの対処だ。ねるべく水分を摂って、トイレに行って、血中濃度を下げるイメージ。
病院の食堂で軽く食べて、コーヒーを飲んでゆっくりする。
それから、タクシーで帰宅する。
抗がん剤にアルコールが含まれているので、自力では運転して帰ることができないうえに、最寄りのバス停まで20分程度を歩く気力も体力もなかった。
そういうルーチンが徐々にできあがっていった。

第2クールが終わり、1月中旬、造影剤を用いたCTを受けた。
抗がん剤を用いてみての効果判定のための検査だ。
私の身体の中に残っていた腫瘍は4か所。
それが、それぞれ1-2mmのサイズまで小さくなっていた。
抗がん剤は効果を出している。そのまま、同じ薬剤で予定通り、6クールまで続けようということが決まった。
効果がある。そのことは、とても嬉しかったし、安堵した。
効果があると思えば、残りの4クールも乗り越えやすいと思った。
楽勝だと思っていた。
家族も、パートナーも、職場の上司も、友人も、みなと喜んだ検査結果だった。

実際に、第3クールは、そこまでしんどくなかった。
仕事は午前中だけの4時間、週に4日までとした。仕事に行けるようになったことも、張り合いであり、喜びだった。
仕事に行くようになって、私はフルタイムがん患者ではなく、パートタイムがん患者になれたのだもの。
気分はまったく違う。身動きしたりしゃべり続けることで、動悸や息苦しさが出ることはあったし、髪はもう抜けてしまっていたけれど。
一か月ぶりにパートナー氏に会うときには、そういう外見上の変化を気兼ねしたが、それでも、まだ余力があったほうだと思う。
家事も少しはやってみるようになっていたし、頑張りすぎては長距離走をしてきたように、へたりこんでは息を切らすこともあったけど。

気楽に構えていたら、抗がん剤治療の後半戦に入った第4クールが非常に苦しい思いをした。
最初の2剤の点滴の後の、全身の重たさや倦怠感、微熱、食欲不振や吐き気、嘔吐。手足のしびれもひどくなってきた頃だ。
胃腸が弱ってきている感じがして、食べるともたれやすかったり、味覚障害から食べること自体が苦痛に感じやすくなっていたりした上に、吐き気。
体重も2-3日で2kgぐらいは落ちる。それぐらい、食事ができない。
ほぼほぼ一週間は横になって過ごすしかなかった。その間は仕事どころではなく、気づけば服薬や点眼がいい加減になっていたり、記憶自体があいまいなほど。
数日間は記憶も意識もすっとんだまま、過ぎてしまう。そうやって、意識を切り離しながら、なんとか横になってやり過ごすことしかできなかった。

この記憶も意識もすっ飛ぶような寝るしかできない期間というのは、2剤だとほぼ一週間、1剤のときは3-4日かかった。
いや、第4クールでは5日目ぐらいにはまだ動けていたかもしれない。それが、回を重ねるたび、まるまる一週間は寝ていたいぐらいになっていった。
じたばたしても仕方がない期間だ。じっと、通り過ぎるのを待つだけ。
家族には申し訳ないが、その期間は機嫌よく振る舞うことが難しい。
食べないことが心配になるのはわかるが、吐き気と倦怠感のひどさ、味覚障害も加わって、食べたいと思えなかった。
それを説明するのも一苦労で、イライラしてしまったことがあったのは、老いた両親に対して、申し訳なかった。
家族がおらずに、まったくの独身だったとしたら、どうしていたのだろうとしばしば考えた。

そんな具合だったから、1剤のときはまるまる一週間、仕事を休むようにした。それを許してくれる職場で助かったと思う。
私の担当するクライアントさんたちも、私の不在や不定期な通勤に文句を言わず、むしろ、私が生存していることを喜んでくださったり、出勤していることを叱ってくださったり、多くの方が温かく待っていてくださった。
職場に行けば、午前中だけでは片付かないほどの雑務がなんとなくあった。
部下たちの業務量の管理をしたり、自分が休んでいる間に変わったシステムを把握したり、復職したことをお伝えする手紙を書いたり。
もっと休んで、傷病手当をもらってもよかったのかもしれないけれど、復職しなければよかったと思ったことはない。
そういえば、主治医に復職を相談したこと、今の今までなかったなぁ。

この時期、自分自身の体感としても、抗がん剤の効果を感じるようになったことがある。副作用ばかりではない。
胃の周辺の差し込むような鈍い痛みが、気づけば軽快していた。横隔膜の裏側の転移って、そのあたりだったのだろうか。それとも、小腸のほうの転移個所だったんだろうか。
鼠径部のあたりの痛みも、徐々に減っていったと思う。今でもたまに不快に感じることがあるのだが、手で押さえていないと居心地が悪いような鈍痛は滅宅に無くなった。そこも転移があると聞いていたあたり。
転移は全部で4か所。どのあたりのどの痛みが関連しているのか、私は知っておきたいと思うのだけど、看護師さんには内臓の痛みは痛いところが患部とは限らないのだからと笑われてしまった。
でも、それらの痛みや不快感が、確実に減少し、軽快していることを感じた。
抗がん剤治療が奏効する約6割のなかに、私は入れたのだった。

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