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人を裁くな

被害者しぐさという言葉をTwitterで見かけてから、なんだかもやもやと心の奥底にたまったおりが湧き上がるような気がしている。
それがやっとなんだったか、記憶がすっとよみがえってきた。
ここからは私の記憶と連想であるので、Twitterで見かけた文脈とはまったく無関係であることを断っておく。

小学生から中学生にかけて、私は集団適応がとことん苦手な子どもだった。
高校生以降も苦手ではあったのだけれども、小学校では同性集団になじむことができず、いつも決まった数人の友人とだけ遊んでいた。
同い年の同性とのつきあいが一番難しく、下の学年の同性の子か、同じ学年でも異性の子のほうがつきあいやすかったような気がする。
といっても、やっぱり、話す相手は多くてもクラスに3人ぐらいまでだった。

親が転勤族で、小学校を転々としたため、その地域の方言を喋ることができないことが致命的だったのだと思う。
小学校ではなんだかんだといじめにあっていた、のだと思う。
だいたいはからかいや悪口といったことばかりだったのだろう。記憶は断片でしかない。
憶えているのは、毎日のように泣きながら帰っていたことぐらいだ。
校庭を取り囲むフェンスをよじのぼったり、校内の池のふちを歩いて足をすべらせて濡れて帰ったりしたことなら、よく憶えているのだが…。
あとは夏休みの向日葵とか朝顔とかの鉢植えは必ず枯らしていたこととか、工作が大嫌いで最終日に親に叱られながら泣きながら片付けたとか。

たぶん、小学校の高学年ぐらいの時だったと思う。
クラスの女子になにか言われた。私はそれに言い返して、口論になった。
すると、相手女子が泣き出した。
そうすると、周りにいた女子たちが集まって、「かわいそう」と相手女子の肩を持つ。
そうやって、めでたく私は悪者になり、みんなで糾弾してよいことになる。
ああ、女子の喧嘩というものは泣いたもの勝ちなのだな、と悟ったときのことを思い出したのだ。

この体験そのものは忘れていたが、今も私のものの見方の中に活きているし、きっとだからずっとこだわってきたのだろう。

被害者は迫害者に転じることがある。
被害者と加害者では、加害者は悪者だ。
被害者を助けることが正義である。正義は被害者を味方する。
しかし、被害者自身が正義をふりかざして、加害者を糾弾する迫害者に転じることがある。
ましてや、加害者を糾弾する迫害者となるために、積極的に被害者のポジションを取ることがある。
一旦は被害者を名乗りさえすれば、自分は正義の立場。悪者にはなにをしてもよい。
そういうルールのゲームをしている人が多いと思って、世の中を見ている。

たとえば、SNSのなかで、AさんがBさんの悪口を書いたとしよう。
Bさんはそのことに傷ついて反論を開始した。そこまでは、Aさんが撒いた種だと思う。
ところが、それを見ていたCさんやDさんやEさんまで、「見ている私も傷ついた」と被害者を名乗り出て、Aさんの糾弾に加担することがある。
Bさんが可哀そうと言ってBさんのためにという大義名分で参戦する人よりも、Aさんによって自分も傷つけられたと自分もまた被害者であるという大義名分で参戦する人のほうが、迫害は苛烈になる。
そりゃそうだ。Bさんのためではなく、自分のための意趣返しであり、自分のための憂さ晴らしであるのだから。

あくまでも自分は被害者であり、だから正義の立場であり、Aさんへの攻撃は正義の鉄槌であるから、そのことでAさんがどうなろうとも当然の報いである。
こういう思考をたどれば、自分の言動がどれほど他者を傷つけても、反省することはない。後悔も、抑うつもない。
きわめて無責任に他者を攻撃できる便利な思考だと思う。
だから、この戦略を使う人は、攻撃する自分の言動に歯止めがきかない。
世論のレベルになれば、Aさんが自死するまで攻撃が続くこともあるではないか。
騒ぎの中でBさんの傷つきが埋没していくことも顧みられることもない。

被害者を忘れ去って、被害者をきどった人たちが迫害者になる。
ワイドショーなんかを見てしまうと、メディアの中にはそういうゲームをルール通りに演じる人も珍しくはないから、とてもしんどい。
その中で被害が消費されて、被害者が置き去りにされることが、とてもしんどい。
加害者が何をしてもよいモンスターとして私刑にあうのを見るのも、しんどい。
このゲームになるべく加担しないように、参戦しないように、私は鋭敏でありたいと思う。

Nolite judicare, et non judicabimini.

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