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書籍『さよなら、俺たち』

清田隆之 2020 スタンド・ブックス

こういう論を男性が語るようになってくれたのかと、新鮮な驚きと喜びがわいてきた。
男性自身が、どのようにホモソーシャルな社会を体験して、内面化しているのか、そこを自ら振り返りながら言葉にしたものに触れる機会は、私はまだ少ない。
男性がどのように男性性を体験しているのか、男性に語ってもらわないことには、私は一応、女であるのでよくわからない。
そういう男性が書いたジェンダーについてのエッセイであるという点の魅力は後述することとして、先に、同業者の方たちに読んでほしいなぁと思ったもう一つの魅力を書いておきたい。

筆者は桃山商事という「恋バナ収集ユニット」として1000人以上の方のお話を聞いてきたのだそうだ。
その活動を通じて、徐々に彼らなりの方法論を構築していったところが素晴らしいなぁと思った。

恋愛相談において最も重要なのは相手の「現在地」を一緒に探っていくことだという考えに至った。
人の悩み事というのは短い言葉で言い表せるほど単純なものではない。(中略)実に様々な要素が複雑に絡み合っている。それゆえ、悩んでいる本人も自分が何に悩んでいるのか、ハッキリ把握していないケースのほうが多かったりする。
それらを読み解くためには、決めつけず、誘導せず、まずはじっくり相手の話に耳を傾ける必要がある。(中略)相談者さんが「今、何に悩んでいるのか」を整理し、共有していく。このプロセスに最低でも1時間はかける。(p.124)

このように、話を聞くことで何をするか、どのようにするか、何を目指していくかを、きちんと整理してあることが素晴らしい。
心理援助職になったばかりの方で、話を聞くとは何を聞けばいいのか、どのように聞けばよいのか、聞くことでどうすればよいのかを迷う方がいらしたら、ぜひ、参考にしてほしい。

相談者さんのお悩みにじっくり耳を傾け、現在地を一緒に探りながら相手に合った解決策を提示していく。これが我々の考える恋愛相談の理想型だ。とにかく相手の話をよく聞く。内容としては極めてシンプルであり、特殊な経験や専門知識は必要ない。すべての男性にオススメしたい方法だ。(p.127)

と、筆者は特殊な経験や専門知識はないと書くけれども、これを心理職がしないとしたら、私はとても残念に思う。
様々な介入技法を身に着けて、専門性を高めることは大事なのだけれども、基本の基本は、ここじゃないだろうか。
「じっくりと耳を傾け、現在を一緒に探りながら相手にあった解決策を提示する」。
ここを読んだ時、この文章を書いたのが同業者じゃないことが、私はちょっと悔しかったり寂しかったりした。

また、読み進めていくうちに、human beingとhuman doingという概念を援用して、ジェンダーの違いを説明しようとするくだりが出てくる。
これって、イルツラ(東畑開人『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』)じゃないのか?と、思った。
ケアとセラピーの対比は、human beingとhuman doingの対比を補助線として援用することによって、ぐっと鮮明になると思う。
セラピーをしなければいけない気持ちに駆られているときには、human doingとしての生き方に自分がなっている時なのだ。
このhuman doingにまつわる部分については、ぜひ、本書を読んでいただきたい。

筆者は、多くは女性たちからもたらされる失恋についての話を聞き続けたことで、男性である自らと対峙せざるを得なくなる。
女性の目を通じて語られる男性たちの「嫌なところ」が、自分にもあるのではないか?と考えて自分を見つめる作業は、しんどい時があると思う。
筆者は落ち込んだことり悔やんだことをかっこつけずにエッセイにつづっていく。そこがいい。

「男性が加害者、女性が被害者」という話ではないし、すべての男性が女性蔑視をするわけでもない。しかし、男性が「男性である」だけで与えられている〝特権”は確実にあって、それは「考えなくても済む」「なんとなく許されている」「そういうことになっている」といった形で我々のまわりに漂っている。(p.10)

そう。そうなのだ。
男性の特権を指摘されたときに、そんなものはないのだと反論する男性も多いわけであるし、反論したくなる気持ちもわかる。
フェミニズムはミサンドリーとイコールではないのに、そこをごっちゃにして拒否反応を示す男性も多い。
それでも、男性であるというだけで特権があるのだという女性側からの主張を一旦引き受けてもらえないと、女性側として話が進められないのだ。
そこを認めた上で論じてくれている男性がこうやって登場していることに、私はなんとなくの救いを感じた。

ジェンダー論というのは、私は諸刃のものに感じることがある。
これを論じることで、自分が居心地よくなるものとは限らない。それは女性にとっても、だ。
だからこそ、フェミニストを嫌悪する女性もいるわけであるし、フェミニストを名乗る人々のなかにもいろんな人たちがいる。
そのあたり、上野千鶴子さんのフェミニストは自称でよいこと、フェミニストの女性は自分の中にミソジニーを抱えているものだという言葉に、ちょっとだけ安心したことがある。
男性がミソジニーに気づき、ミサンドリーを感じたとしたら、やっぱり居心地悪く、憂鬱で不愉快な体験になるだろうとは予測される。
だからといって、たとえば非モテであるとか弱者男性であるとかを盾にされても困るのだ。
女性がホモソーシャルな社会に適応するためにミソジニーを引き受けざるを得なかったように、そのホモソーシャルな社会を維持してきた側としてのミサンドリーを引き受けてもらって初めて、お互いに話が通じるのではないか。

そういう隘路を見出した読書だった。

新しくできた書店で、手に取った本。
Twitterで見かけた記憶があった。
たまたま、サイン本だった。
在庫はその一冊だったので、サイン本をいただいた。
これもなにかの御縁。

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