鬼滅モンペの鬼滅モンペによる鬼滅モンペのための戯言

 本誌が最終回かどうかは別として、おそらくなんらかの区切りをつけるこのタイミングで、頭にあったものを、整理したくて、とにかくアウトプットしてみた。
 残念ながら結局頭が悪すぎてちゃんとアウトプットしきれなかったから、修正するかもしれないし、しないかもしれないし、はたまた消すかもしれないけれどとりあえず一旦吐き出しておこう。  
 アニメ化をきっかけにした鬼滅の今の大ブレイクは「普通と違う鬼退治」「鬼にも救いを与える」「慈しい主人公」という部分に大きくフォーカスして恐ろしいくらいにどんどん広がっていった。
 私は自分でも上手く言葉にできないながら、少し前から結構そこに違和感のようなものを覚えていた。その理由がなんとなくわかってきたんだけど、多分あまりにも一つの要素が一人歩きすることが怖かったのかなと思う。
 なにしろ炭治郎は最初から「禰豆子を人間に戻す」そして「家族の仇をとる」を目的にしていたから。別に鬼たちを救うための旅をしていたわけではないし、間違いなくとてつもなく慈しい人だけれど、誰にでも無償の愛を捧ぐ完全無欠の人格者ではないと、わたしは思っていたから。
 むしろ元々四角四面すぎるとこがあって(自分でも認識してるようだけど)。思い込みも強いタイプだと思う。正しい正しくないは別として、1度決めたことは基本曲げない。あの長男理論にもそういうところが現れていて、原作はちゃんとそういう風に描かれていると思う。
 でも、今あまりに「慈しい」「人格者」のような側面が一人歩きしていって、新たに鬼滅の刃を読む人の中では、炭治郎こそが正しい、彼による世界の全てへの救いの物語なのだという先入観が少なからずあるんじゃないかと思う。また「慈しい物語なのだから、全てが等しく救われる」という思う人もまたいるのではないかと思う。
 しかも当然主人公である炭治郎を中心に作品は展開するので、その先入観を持っているとますます炭治郎の意見こそが「全て正しい」ように見えてくるし、炭治郎がいよいよ心が折れそうになるタイミングでは「お前の信じる道をただ進め」と色々な方法で背中を押してくれるタイプの人たちが現れるので、やっぱりもっとそういう風に見えてくる。そして炭治郎の意図はどうあれ、結果的に救われる人も鬼もたくさんいるのも確か。
 でも、炭治郎の「正しさ」は結局、あくまで炭治郎の観点から世界を見たときであって、すべてにおいて「正しい」ではないとそもそも思うし、やっぱりこれも原作ではちゃんとそう描かれていると思う。
 例えば実弥にまつわる話で言えば、禰豆子を刺した、ということについては炭治郎は実弥を許すことはないと思う。炭治郎にとっては、それは「正しい」のもわかる。だって炭治郎は家族を鬼に殺され、唯一鬼にされながらも生き残った禰豆子の手を握りしめて、必ず元に戻すと、絶対守ると誓っていて、それこそが目的なので。そこから全ては始まっているので。
 しかし、考えてみれば鬼殺隊の本当のルールにおいては、むしろ実弥の方が「正しい」といえる。だって鬼殺隊はどんな鬼も(それこそ実弥は母親でさえ)問答無用で斬ってきた。だから、本来は今回もそうじゃなきゃいけないし、特に実弥からしたら、そんなの絶対に認められる訳ない。個人的には後から思えば、正直あの時のお館様は実弥にとっては結構残酷なことをいっているなあとさえ思う。
 そういう複雑な、単純に善悪で割り切れないこととか、等しく救われない不条理さがいろんな人に、そして人だった鬼たちに起こっている。そういうところがまたとてつもない魅力であるはずなのに、広がってしまった「炭治郎が正しいバイアス」が「禰豆子を刺した実弥は救われなくて当たり前」とか「玄弥に酷いことしたせい!」とかいうトンデモ意見を生んでしまったようにも思う。
アニメ化してたのがまだ超初期部分までなのもあると思うけど。
 そして当然、この例で言えば実弥ははちゃめちゃに魅力的なキャラクターなので、そんなこと言われたら彼を推す人はブチギレる。ちなみにわたしもめちゃくちゃキレてる(正直、言葉を選ばずにいえば、ここまで偏った意見はもしや「鬼滅の刀」でも読んでるのか?と思ってしまうレベル)。  でもこの例はかなり極端な例だけど、本当はいろんな角度から読めるし、とにかくめちゃくちゃ魅力的な作品なのに、作品での扱いを超えてある一要素があまりに一人歩きしたことが一つの要因で、結果少なからず色々と理不尽な批判を受けてしまってること、これに私はモヤモヤしているんだろうなあ。

 あと最近、炭治郎の軸ブレてるじゃん、みたいな言葉も見るようになってた。特に炭治郎が無惨を指して「存在してはいけない生き物だ」といった言葉をもってそう言われていたりした。  
 確かにあの言葉は衝撃的だった、炭治郎があんな顔をして、こんな台詞を言うのか、と思ったから。そんな風に言わなきゃいけなかった炭治郎の心を思うとあまりに辛かった。
 でもけしてブレてはないとおもう。なぜならやっぱり最初から炭治郎は別に聖人君子じゃないから。元々那田蜘蛛山でも「鬼であることに苦しみ、自らの行いを悔いている者を、踏みつけにはしない」といっていたし、以降も自身が対峙してきた鬼に対して、あくまでそれがベースだ。
 そもそも、炭治郎自身が「よし救おう、どうにかしよう!」と思った結果相手が救われるケース、そんなにない気がする。というか、明確にこうしよう、という能動的パターンは実弥と玄弥の仲を取り持とうとしたケースぐらいで、むしろ失敗してる。
 なので基本みんな炭治郎の言動に、行動に共感したり、何かを思い出したりして、結果として救われていのであって、別に炭治郎が全てにおいて正しく、全てに手を差し伸べたから救われたというわけではないと思う。
 そして無惨という生き物は、とにかく生きたかった。どうしても生きたかった。自分にはできなかったのに、当たり前のように生きられるものたちがずっとずっと憎かった。殺しても、殺しても永遠にその命をかけて自分に向かってくる鬼殺隊が疎ましかった。この世に生まれ落ちた瞬間から「自分が生きること」だけに執着し、求め続けた彼からすれば、命があるのに、わざわざ死に向かってくる鬼殺隊は異常者だった。許せなかった。憎かった。
 もうこの時点で、炭治郎には無惨を理解できないし、救えないと思う。また無惨の方も、本来炭治郎の言うことは理解できないし、そこに救いは感じられない。それなのに最後、形だけ「繋ぐこと」を理解したかのようにみせ、そして炭治郎に縋らせたことは、またものすごい皮肉だなあと思っている。

 あとこれはもうたまげるんだけど、今回の本誌の展開に、結局は主人公補正ね、炭治郎だけは全部治ってよかったね!失われたものは戻らないとかいっといて、ご都合展開かよみたいな言葉を結構みた。確かに鬼化期間すごく短かったし、目も腕も正常に機能するかは別として、見た目はほぼ元に戻ったからそういう捉え方もあるかもしれないけどもさ。
 だけど、こんなにも辛い思いをしてきたあの子にさえ、そんなことをいいますか、と思ってしまうよね。あの雪の日に全てを失って、細くて今にも消えそうな希望の糸をどうにか繋いで、ずっと握りしめて、それも何度も切れそうになって、それでも繋いで、繋いでもらって。ようやく、雪が晴れたのに。 わかってる、いろんな意見があることもわかってるんだけど!!さ!!
 

 というわけで。これは整理であり同時に戒めだ。そう、嫌な意見は見なきゃいい。「嫌なら見るな!」は、何かを批判をしたくなった時点で自分に返ってくる言葉であることを胸に刻んでおこう。  
 ついね、あまりに大好きすぎて、モンペになって、批判を批判したくなっちゃうけど!私が好きなんだからそれでいいのよ。

 どうかコロナが一日も早く落ち着いて、映画に無事行けますように。そして通わせてくれ。バスタオル持って大好きな友人と手を握りながら見るからさ!!複数回ね!!!

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