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嫉妬について

(2020年10月27日、寝る前にベッドの上でブゥワ〜って書いた気持ち。読みやすさとかは一切考えていない。堪忍な。)

同じお酒を飲んでも、すぐ酔う人とたくさん飲める人がいるように、傷つきやすさや、つらさは個人差があって当然という例えを聞いてすごく納得した。でもつらさは一旦置いといて、嫉妬のはなしだけど、お酒を飲んで楽しめる人と、すぐ体調悪くなる人がいて、自分が体調悪くなる側だとしたら、たくさん飲んでおいしさ味わって楽しい気分になってる人ずるいって思ってしまう。じゃあ自分は美味しいジュースを飲めばいいけど、それじゃ楽しくなくて、お酒が飲める人も同じように美味しいジュースを飲むことができるから、いつまでも向こうが優位で、自分だけが足りない、劣ってる、損してると思ってしまう。だから必死に相手の損してる部分や、コンプレックスや、苦手なことを探したくなるし、相手に自分を羨ましいと思わせたくて仕方なくなる。たとえば相手は巻き爪の痛みに悩んでて、自分はいつでも快適な指先、とか、相手は知覚過敏でアイスが食べられないけど自分は美味しいアイスを食べられる、とか。でもそんなのアピールしたって相手は痛くも痒くもない。見てる世界が違う、だからこそさらに嫉妬が加速する。
こんなんじゃマウンティングを日常的に行なっている不幸な人たちと何も変わらない。マウンティングこそしてないものの、いつまで経っても不幸だな。
ただ自分が幸せ、美味しい、楽しい、それだけでいいのに、苦しんでる人や、満たされない人や、不幸な人と比べないと、楽しいとか幸せとか思えないのって、それが一番不幸だ。
でもただ自分が幸せ、美味しい、楽しいと思って満足してた瞬間って、これまでにどれほどあっただろう。経験がないと、再現もできない。
純粋に安心して楽しかったことが、美味しかったことが、幸せだったことがないから、インスタントでも、ハリボテでもいいから、見様見真似で幸せっぽいものを感じるために、比較するしかなかったのかもしれない。
それに、手放しで、いつでも安全で、安心で、怒鳴られず殴られず怯えず慎重に言葉を選ぶ必要もなく、ただやりたいことをして、やりたくないことをせず、眠たいときにそこらじゅうで寝て、不満があれば怒ってだだをこねて、好きな時に独り言を言って、歌ったり踊ったり走ったり、わがままを言って甘えたりしてきた人が羨ましくて羨ましくて羨ましくて羨ましくて羨ましくて仕方がないから、そんな瞬間なかったし、許されなかったし、声を殺して足音を立てずに歩いて痛みに耐えるだけだったから、ものすごく大きな妬みの感情を抱えてしまった。
もしかしたら、自分が優位に立ちたいわけではなくて、自分の苦しみをみんなに理解してもらいたいのかもしれない。それは、かわいそうだったねと同情されたいわけでは全然なくて、ちゃんと理解されたい、させたい、体験させたい、同じ目に遭わせたいという加虐の気持ちかもしれない、不幸な目に合わせたい、自分と同じくらいの身体と心の痛みを味わって、無力感と苦しみと抑うつと虚無感と洗脳と罪悪感と嫉妬を味わって、ようやく理解されるってことだと思う。
不公平に対する巨大な感情が時間をかけて煮詰まってこんな風になってしまった。
自分だって立場の違う苦しんでる人のことは理解できないのに。
人の不幸を願ったり、苦しんでる姿を面白がったりする人って、きっと理由がある。
虐待をする親も(みんなじゃないかもしれないけど)、幸せそうに子どもらしくしてる子どもを見てるとムカつくんだろうな。それはよく分かる。自分が幸せじゃないと、羨ましくて仕方なくなる。
意地悪な人間の気持ち、加害者の気持ちがよくわかる。私もそうなんだとおもう。
でもだからといって私は、怒鳴ったり殴ったりしない。目の前で誰かが困ってたり、不幸にしてたら、普通に心配になるし、友達ならなおさら幸せでいてほしいと思うから矛盾してる。
マウンティングや暴力はダサいからしない。でも本質は見たくない。
よく知ってる人なら幸せになってほしいと思う。でも知らない人ならいくらでも不幸を願える。知らないから。
知ってしまったら情もあるし想像もできるから不幸を願おうなんて思わない。
でもやっぱり心の平穏のために、不幸を願う対象や嫉妬や憎悪の対象が欲しくて、だから見ようとせず知らないままでいて、赤の他人を心の中で攻撃するのかもしれない。
妊婦や赤ちゃん連れを狙って転ばせたり殴ったりするクソみたいな犯罪者の気持ちのメカニズムがなんか分かる気がする。ぜったいだめだし怒りも湧くし、撲滅しないとなんだけど、心の底にあるものには共感する。悲しい。
もっとみんなの苦しみや悲しみを知ったほうがいいのかもしれない。
世の中の多くは幸せで平和ボケしてるって信じて、それを普通という言葉で呼んで、嫉妬と怒りを抱えていたけど、ほんとに幸せを感じてる人ってどれほどいるんだろう。心の感度が鋭くなかったり、自分で考えないから、とりわけ幸せでもないのに、幸せかもって思い込んでたり、スペックも環境も恵まれてるのにそれもまた同じように何も考えないが故に幸せだと気づかないこともあるのかな。
私は必死になって幸せというものを理解しようと向き合って、探して、というか自分の心のあり方、幸せの感じ方、受け入れ方みたいなものについてめちゃくちゃ強い欲望、喉から手が出るほどの渇望、によりムキになってるけど、こんなにムキになって執着してる人はあまりいないのかもしれない。
怒りが溢れて止まらないほどの憎しみと殺意を抱いているからこそ、一方で真剣に幸せになる方法を探している。
自業自得とはどうしたって言えないから、人生を奪われたことを憎むしかなくて、だからといって殺しても何も返ってこない、戻ってこない、やり直せるわけでもない、虚しさ
こんな時みんなどうしてる?って思うけど、みんな自分と寸分狂わず同じ経験なんてしてないから、どうもこうもない。お互いの苦しみを話し合って、慰め合って、散歩して美味しいもの食べて気を紛らわして、優しい気持ちを受け取りあって、まるでその世界が自分の世界のすべてのようにその瞬間は感じて、そういうのを繰り返して積み重ねて、深い傷や憎しみや怒りの容量よりもいつか逆転するように、全方向の強い光で影すら飛ばすように、ちょっとずつちょっとずつやってくしかない。
楽しいがわからなくても、安心がわからなくても、ちょっとずつ慣れていくしかない。わからないことに慣れるのではなくて、形だけでもみんなが楽しんでることを、安心することを、違和感や苦痛を伴っても、慣れるまでやるしかない。
我慢することが当然で、好き勝手やってる人を見てムカつくから、あいつを拉致して監禁しようと思うのって誰も幸せにならなくて、まあ実際拉致監禁しないから、自分がずっと不幸で、嫉妬に狂った時に、シンプルに自分にとって幸せな選択をしていこうという発想がまずないんだよね。我慢をやめれば解決する話なんだけど。自分にとって幸せ、っていうことについてもっと深く考える必要ある。自分の環境とか経験もハンデだけど、それにより身についてしまった考え方、捉え方、感じ方、思い込みの洗脳のほうがよっぽどよっぽどハンデだ、脳を意識的に洗い直さない限り死ぬまで続く。
いつもいつも苦しみとか、憎しみとか、怒りとか、嫉妬とか、負の感情について深く掘り下げて考察して、それは結構プロ級だけど、もう十分わかりきってることを繰り返し考えるのは研究でも学びでもない。知らないことを考えて答えを導き出して分かるようになっていくのが研究で学びだから、自分の苦手な分野、知らない分野である、自分が楽しいとか自分が幸せとかに挑戦したほうがいいのかもしれないそろそろ。
ただゴロゴロしてるだけじゃ幸せになれなくて、ムキムキになるには日々苦しい筋トレをするように、幸せになるには日々苦しい再洗脳をして鍛えなきゃいけないんだなあ。めんどくさいな。わざわざそんな努力しなくても幸せの感じ方赤ちゃんの時点で自然と身につけてる人いっぱいいるじゃん、ずるい(ふりだしに戻る)。ていうか別に幸せにならなくてもいいんだけど、と思ってる自分もいる。けどそういう態度っていじけててダサいとも思うし、何より友達はみんなきっとめんどくさかろうと不幸なままでいるより多少つらくとも幸せになりなさいよと思うだろうな。毎日つら、と思って、なんかもうしんどいから死ぬかって言って死んだら悲しむでしょ。
まあでも自分では何もせず、誰かに幸せにしてもらおうとしてないところは評価できる点かなと思う。ていうかそれで幸せになれるなら迷惑かけても依存するけど、結局何を与えられても愛情を向けられても、自分が幸せを感じられない心でいる以上は無駄、というか実感を得られないのがわかってるから、意味ないって知ってる。
優しくされても、励まされても、大切に思われても、感謝はするけど、それが自分の身に染みたり自信につながっていかない感じが本当に申し訳なくて、みんないつもお弁当作ってくれてるのに、食べられないから味もわからないし自分の栄養にもならないみたいな。だからそれをちゃんと受け取れるような心の自分になりたいから、再洗脳しますわ。

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