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「私なんか」は「お前なんか」

今日はすごく久しぶりに会ったともだちと3人でお茶をのんで、さんぽして、カレーを食べた。いろんな話をした。たのしかった。
昔、ハムスターはいつも「私なんて…」「どうせ私なんか…」という態度だったけど、今はちがうという話もした。私なんか…という卑屈な態度は、時に人をイラつかせる。昔ある人に「どうしていつもそういう態度なの?否定されたくてわざと言ってるの?」とおそらく悪意や他意はなく真剣に聞かれたこともある。こういう態度、見てるとなんかムカつくのもわかる。だよね。でも心の底から本気で、私なんか…無価値…とおもってた。そうおもったことない人にはきっと理解されないかもね。
今はあんまりおもわなくなった。すごくすごく素敵で最高な人たちが、ともだちでいてくれて、仲良くしてくれて、やさしくしてくれる。いつもハムスターの話をいっぱい聞いてくれて、ハムスターの自信につながるようなことを言ってくれて、好きだよ!大好きだよ!って言ってくれる。しかもひんぱんに。泣いちゃう。血が繋がってないのに、そんなによくしてくれて、大丈夫?とおもう。気分が落ち込んで、悲しい悲しいあーこれは死んだほうがいいなって生理前におもうんだけど(PMDD)、そういう時は、ともだちみんな善人だから奉仕活動の一環として一緒にいてくれるんだ、こんな無価値な自分なのに…とおもってしまうこともある。けど元気で思考が正常な時は、きっとハムスターにも素敵な部分があったり、一緒にいたら楽しいから、ともだちでいてくれるんだって気分になる。私なんかって昔に比べたら全然おもわなくなった。

冷静に、客観的に、自分のこと見れる時間が増えると、どうして私なんかっておもっていたのかが分かってくる。何もむずかしいことじゃない。何年もかけて毎日、言葉で、態度で、行動で、「お前なんか」「お前なんか」「お前なんか」ということを刷り込まれると、不思議なものでいつの間にやら「私なんか」「私なんか」「私なんか」に変わっていく洗脳。

私なんかと思ってるのは、私じゃなかった!思わされていた!
私の中に住んでる母がずっとずっと私に向かってお前なんかと言い続けてる。それを自分自身の考えだと、自分から湧き出た気持ちだと錯覚を起こしていた。しかもそれにずっと気付かなかった。それにはっきり気付いたのは、去年のたしか秋の終わり頃、近所の川でともだちとスケボーの練習をしてた時だったんだけど、自分はダメだって何度もおもって、でも、あれ?なんか変、あれ?あれ?あれ?おかあさんだ、わたしじゃない、おかあさんがいってる、っていきなり気付いちゃって、それをその場でともだちに言ったら、「そうだよ、知ってたよ、でも自分で気付けてえらいね」ってほめてくれた。ハムスターは嫌な事実に気付いてしまった絶望感と、ほめられたうれしさで、わけわかんない気持ちになっちゃった。

ハムスターは自分のこと、お前なんか!っておもったこと、あったかな?って冷静に考えたら、たぶんないっておもった。ていうか自分の存在は無条件に悪って決まってたから、ちゃんと自分のこと見て評価したこと、そもそもないわっておもった。

かつてハムスターが高校生だった頃(現在1さいのハムスターを自称しているのでタイムパラドックス起こるね)、口癖が「しにたい」だったんだけど、1日に何回も「しにたい」って言ってた。あーおなかすいた、みたいに、あーしにたいって言ってた。そしたらある日、クラスメイトの女の子が「そんな言葉、軽々しく口にしないで!」って怒っちゃった。やだなーそんな怒んないでよっておもったし、ハムスターの知る限りでは、その子のおうちはうちと違って家族みんな仲良くて、愛情をもらって生きてて何が不満なの?っておもった。今考えるとたぶん、だからこそ死なんてただごとではない、とんでもないことだから、強烈に反応したのかなともおもうし、なんかごめんっておもうけど、当時のハムスターはほんとに毎日毎日何年も何年も生きることが限界だったんだとおもう。高校生になっても、朝、玄関で座って靴を履いてたら、母に背中を蹴られて、泣きながら家を出たりする日もあった。毎日サイテーだった。だから死にたいっておもうことは何も特別なことじゃなくて、すごくすごく普通のことだった。助けてもらう発想がない中で、生きててなんとか家の外側の人たちに伝えられる言葉が唯一「しにたい」だったのかもしれない。小学生の頃からほんとに死にたいってずっとおもってたし。窓から飛び降りることとかしょっちゅう考えてた。こわくて実際にはできなかったけど。
感覚が麻痺して怒鳴られるのも叩かれるのも当たり前のことって感じてる中で、なんとか出せたSOSが「あーしにたい」だったのかもしれない。それに「しにたい」って口に出すと、ちょっとだけ気分がラクになるような気がした。

でもさ、たぶんさ、「しにたい」も「お前なんか」「お前なんか」「死ね」「死ね」「死ね」が刷り込まれて「しにたい」になったのかもねっておもった。

ほんとに死にたい人ってどれくらいいるのかな。心の底から自分の意思で死にたいって思ってる人、どれくらいいるんだろう。きっと多くは、SOSで、つらいけど助けてほしいなんて言えない、だったり、他の選択肢がひとつもないって思い込んでたり、他の選択肢を考えるエネルギーすらないけどこれまた誰かに頼る発想がなかったり、人からつけられた傷を自分の所有物とみなして、刷り込みを、洗脳を、自分の考えのように勘違いさせられてるんじゃないかな。それってひどいよ。心や考えは自分だけのものなんだから(身体ももちろんそうだけど)、誰かに支配されたり、操作されちゃいけない。もちろん励まされたり、ほめられたことを素直に受け取って影響を受けることはいいことだけど、深い深い井戸の底に突き落とされて、自分が悪いんだ、自分はここがお似合いなんだ、このまま死ぬんだって落ち込んでも、突き落としてきたやつは、とっくにどこかに出かけて、のうのうと生きてる。あー死にたいって思うのは、ひどい!つらい!なんて理不尽なんだ!っていう悲しみや怒りかもしれない。けどそれが言語化できなかったり、悲しんだり怒ったりすることは良くないこと、いっちょまえに自分なんかが悲しんだり怒ったりする権利ない(これも洗脳)って抑圧したら死にたいという言葉や気持ちに変換されてしまう。ほんとは死にたいじゃなくて、ひどい!悲しい!ムカつく!やだ!助けて!かもしれないのに。

死にたい人を死にたくない人が止めるのはむずかしい。私なんかっておもってるのをそんなことないって正すのもむずかしい。でも、死にたい人が自分自身に「本当にそうか?それは本当に自分の気持ちか?」って問いかけることはできる。私なんかっておもってる人が「本当にそうか?それはお前なんか、がすり替わってるんじゃないのか?」と考えることはできる。

自分のことって、自分じゃ全然わからないけど、でも自分のことって、誰よりも自分がわかってる。再洗脳してく。

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