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サバイバーじゃない

虐待を受けていた人のことを、虐待サバイバーというらしい。それでいうと自分もそうなんだろうな。よく今まで生きてたねって、言われるたびに、確かにって思う。並行世界があるとして、他の世界線じゃ8割死んでる。しかもほぼ自死。よくグレなかったねとか、よくこんなに素直に育ったね、とかも言われる。でもさ、母が一番グレてたから、そのポジションはもう空いてなかったんだよね。ずるいよね。素直に育ったのは、洗脳を受けてたからなのか、それとも素直だったからこんなにも洗脳を受けてしまったのか。わかんないけど、でも虐待サバイバーなんだろうな。
虐待サバイバーとして(という呼び方で)、自分の頑張りを認めたり、悲しい出来事を伝えたりしてる人たちもたくさんいる。同じ境遇の人たちと励まし合ってる人たちもいる。いいねって思う。でも、自分のことを虐待サバイバーですって言うのは、なんだか抵抗がある(もちろん、その言葉を使ってる人のことを否定してるわけじゃないし、考えや立場や受け取り方はそれぞれだから、自分はなんか違うっていうはなし。)。虐待を受けてたことを、自分のアイデンティティには絶対にしたくない。望んでそうなったわけじゃなく、虐待を受けるか死ぬかしかなかったから。逃げるなんて選択肢もちろんない。助けてもらうなんて発想ない。自分が被害に遭ってる感覚もなかったから。怒鳴られるのも、叩かれるのも、殴られるのも、そういうものだとおもっていた。自分のせいだから当然、仕方ないことだとおもっていた。

きれいなもの見てきれいとおもったり、ともだちと楽しく話してる瞬間とか、それこそがわずかながら存在してる「自分」だとおもってる。洗脳されて、言いなりになって、何も自分で考えない、自分で選ばない、サンドバッグのゾンビとして機能する中で、大事に大事に隠して守ってきた、頭と心の片隅の部分。それが「自分」だとおもってる。
虐待から生き抜いたことを、自分で選んだわけじゃない。それは自分らしさじゃない。ギリギリかろうじてなんとか生きてるけど、そうじゃなくて、もっと実感を持って生きたい。自分の意思で生きたい。存在感と生命力を、自分で感じたい。大事に守ってきたわずかな部分を、どんどん大きくしたい。

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