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スーパー・ゴアテックス・ハムスター

ひねくれててかわいくない、口答えばっかりしていつも不機嫌と散々言われてきたのに、大大好きな友達たちは、素直だって言ってくれる。いいこって言ってくれる。
尊いって言ってくれる。強いって言ってくれる。頑張ってるって言ってくれる。ハムちゃんが元気ならみんなも元気になるし、笑顔ならみんなも笑顔になるって言ってくれる。最初からあるよりも、ないのを取り戻す方が、ずっと尊いって。
ハムちゃんがこれから見ていく景色を、一緒に見たいって言ってくれる。

大好きだよとか、ラブ!とか、いつも言われる。ありがとうございますっておもう。でも、たぶんちゃんと受け止められてない。自分の体の外側に、甲冑みたいな硬い膜があって、たくさんの愛情をこれまでもずっとはじいてきたんだろうなとおもう。心の奥底まで吸い込んで、じわじわと滲んで、浸透していくはずだったたくさんの暖かい気持ち。自分だけに向けられてる優しい想い。ぜんぶ滑って流れて、ビシャビシャとこぼれ落ちていった。包まれてることを実感してうれしくなったり、安心したり、そういうチャンスをぜんぶ見過ごしてきた。電車が何本やってきても、ずっとホームに突っ立って、見送るような。
なんでだろうと考えてみた。昔は、みんなハムスタのこと嫌ってる、いない方がいいって、早く死ねって思ってるって思ってた。今はそれより成長したから、周りのみんなは、好きでいてくれてるってわかった。ハムスタもみんなのことが大好き。楽しい時もつらい時もそばにいる。お互いの気持ちをたくさん喋ったり、いっしょにごはんを食べたり、すっごくくだらないことで涙が出るほど、おなかの筋肉が痛くなるほど笑ったり、いっぱいふざけたりする。好きなものも似てる。励まされることのほうが多いけど、ハムスタもときどき励ます。元気になってくれる。うれしくなる。こんなに両思いなのに、どうしてみんなからの愛情を受け取れないんだろう。それは、ハムスタがハムスタのこと全然好きじゃないからだって、わかった。愛情を受け取るのにふさわしいと思えないから、無意識に拒絶したり、流したり、はじいたりしてるんだろうな。

自分のことは大切にしたほうがいいとか、自分は人から愛されるのに値する存在だって、当たり前のように感じるのはきっと、かつて、まだ何も知らない頃、大切にされ続けた経験や、愛を無条件に与えられ続けた経験が細胞に刻まれてるからだとおもう。ハムスタは、たぶんそうじゃなかった。きっと親らしいことをされたこともあるだろうけど、それよりもむごいあれこれでかき消されちゃった。
泣いてる赤ちゃんに対してどうしたのかなって、原因をつきとめて対処したり、不機嫌の原因を見つけて、その気持ちに寄り添って、どうすればいいかを教えたり、そういうサポートの繰り返しで、子どもの中に親の存在が育まれて、親がいないときでも、ちょっとずつ自分の中の親が励ましてくれたり、教えてくれて、ひとりで対処できるようになる。そういうポジティブな存在が、ハムスタの中にはいないから、いつまで経っても、いくつになっても、悲しくなったら、その気持ちをずっと引きずって、問題が起こっても我慢して、対処ができない。心地よくしようという発想がない。大切にできない。
写真の整理をしていたら、実家のアルバムから抜き取ってきた小さい頃の写真が何枚か出てきた。たぶん制作か何かに使えるかも、みたいな思惑だったとおもう。わざわざ写真に残そうと撮った瞬間だから、そこには笑顔のハムと、機嫌のいい母と、穏やかな父が写っていて、幸せそうで、ソフトクリームを鼻につけながら真剣に食べてる写真、黄色い大きな柑橘の皮を頭に乗せられてる写真、こしあんを小さく丸めていくつもテーブルに並べてる写真、母に抱っこされてピースしてる写真もあった。はたから見れば、普通の家族に見えることもたくさんあっただろうし、その瞬間はきっと幸せだったんだとおもう、ほんとうに。でも、子供を幸せにするために産んだわけではなく、自分が幸せになるために子供を産んだことを、今はもう理解している。ハムスターは、親のペットであり、親のアクセサリーであり、かわいがったり、鬱陶しく思ったり、過干渉したり、ネグレクトしたり、自分の手柄のように感じたり、自分の汚点のコピーのように感じたり、それはその時の気分次第だった。
そういう不安定な親の姿が、ハムスタの中に育まれて、ハムスタは健全に自分自身を励ます術も持たず、ネガティブな呪いの言葉だけが、大人になってもこびりついて離れない。まるで自分の考えであるかのように。

ハムスターは、ひとりでいる時、いつも0人か2人だなっておもう。そこには誰もいなくて、自分もいなくて、ただ人型の置物が存在してるだけ、思考も感情も無で、横たわってるだけの置物。それか、自分と母親の2人。こんなことはしちゃいけない。120点じゃないといけないんだから99点じゃなんの意味もない。周りからはこう見られてるに違いない。山ほどある、うちだけの考え、うちだけのルールに今も縛られてる。それが変かどうか、間違ってるかどうか、他の人、よそ様の家と、比べたことがないからわからない。自分が心地いいかどうかなんてルールは存在してないから、そんな基準で物事を決めたことはない。それに、2人だってことに気づいたのは、ほんの2年前で、それまではずっと、自分から生まれた考えだって思ってた。自分の意思だって、思い込んでた。
ひとりでいる時は、ちゃんとひとりになりたいよ。

何かを自分で決めて、そのために頑張って、達成して、心から喜んで、そういう成功体験がない一方で、振り回されて、いいなりになって、望むように振舞って、求められる前に先回りして差し出す、そういうことだけをやってきた。じゃないと怒られるし、ぶたれるから。それが異常なことだとも思わなくて、自分がダメだからだ、ぶたれても当然で、仕方のないことなんだって思ってきた。自分の話はしちゃいけない。しても否定されたり、大げさだって言われる。自分の話をしない代わりに毎日愚痴を何時間も聞く。相槌を打って、思ってなくても同意して共感する。サンドバッグになって人のために生きる。だから、とにかく諦めることにはものすごく長けている。すべてがどうでもいい。自分の気持ち。自分の考え。自分の人生。ああどうでもいい。ほんとにどうでもいいから、どうでもいいということすら頭に浮かばない。
今も調子が良くない時は、すべてがどうでもよくなる。自分の気持ちが悲しくても、どうでもいい。お風呂に入らなくなって、外に出なくなって、気分が沈みつづけても、どうでもいい。なんとかしなきゃ、元気になりたい、そういう自分の声もどうでもよくなって、やがて何もかもどうでもよくなる。でもハムスタが元気ないと、どうでもいい暮らしをしてると、心配になる人たちがいるんだって。連絡をくれたり、電話をくれたり、駆けつけてくれたり、お風呂入りな、ご飯食べな、窓開けなって言ってくれる。ご飯作ってくれたり、お風呂貸してくれたり、うちの掃除をしてくれたこともある。申し訳ない気持ちもあるけど、自分の中の母親が、人様に恥ずかしいところを見せて、みっともない!迷惑かけて!って怒ってるのがわかる。でもあなたは、人に自分の恥ずかしいところ、ダメなところ、弱いところを見せられなかったから、親友もいないし、家族にも見捨てられて、見栄しか残らなかったんじゃないの?どうして迷惑かけたらだめなの?私は大切な人に迷惑かけられたら嬉しいし、私が迷惑かけても、喜んで手を差し伸べてくれる人がいるよ?私が鼻水いっぱい出しながら、いっぱい泣いたら、笑って抱きしめてくれる人がいるよ?おかあさん、おかあさんは知れなかった、経験できなかったことを、私ばっかり経験して、ずるいって思う?おかあさんは孤独だったのに、私には友達がいて、助けてもらえて、ずるいって思う?それはかわいそうなことだとおもうけど、でも、じゃあおかあさんも、そうすればよかったんじゃない?そうすればいいんじゃない?それをしないのは、あなたが決めたことでしょ、私は、ちゃんと人から愛されることを選んだよ。まだ上手に受け取れないけど、受け取れるように努力するよ。自分で。口答えするなっておもう?でも口答えは、してもいいんだよ。だってあなたと私は別の人間だし、あなたは私のことを思い通りになんてできないもの。だから私はあなたを変える気もありません。ただ、離れるだけ。冷たい、薄情っていつも言うよね。でもね、友達は、もう充分、子どもの頃に親孝行してるよ、お母さんが子不孝なんだよって言ってくれたよ。それでもまだ親孝行を求めるなら、いちばんの親孝行をするしかないね。なんだと思う?それは、すごく幸せになることだよ。親は、子どもが幸せでいることがいちばんうれしいんだって。あなたにとっては違うかもしれないけど。

ハムスターは自分のこと好きって思えないし、大切にできないけど、それでもなるべくルールを決めて生活したいっておもった。よくわからないけど、認知的不協和っていうのがあるらしく、好きだから世話を焼いちゃうっていうのと逆の順番、世話を焼いてるうちに好きになってきちゃう、っていうことが起こるらしい。

・朝起きる
・カーテンを開ける
・空気の入れ替えをする
・掃除する
・ゴミを出す
・ごはんを適量噛んで食べる
・できるだけ自炊する
・おかしばっかりたべない
・身体や衣類や寝具を清潔に保つ
・散歩する
・日光を浴びる
・友達と話す
・できるときは気持ちを書く
・早く寝る
・体を冷やさない
・暗い部屋にいない
・炭酸とか甘いジュースは週1かいまで
・我慢して限界になってから病院に行くのをやめる

普通のことを繰り返して続けることが元気を持続させることは、経験上よくわかってるけど、すぐどうでもよくなっちゃうから、どうでもいい気持ちと、生活を正すことは、切り離して考えよう。習慣にするのは難しいから、ときどき助けてもらいながら、なるべくできるようにしたい。

いつもちょっと不幸なのなんでだろうって考えて、それはいろんな要因があるから単純ではないけど、そのひとつに、今のこと無視してるからだっていうのがあるとおもった。いつも、ちょっと未来のこと考えて、こうなったらいいのに、こうなったら怖いから今こうしなきゃっておもったり、過去のこと考えて、いやだったなとか、何も感じてないようで実はダメージあったなとか。常に、今この瞬間、自分が何を感じてるか、どうしたいか、元気か、心地いいか、ずっと無視してたな。起きて伸びをしたら気持ちいいなとか、日差しがポカポカして気持ちいいなとか、そういうことをおろそかにしてきたし、どうでもよかったから、未来に焦るか、過去に囚われるかで忙しくて、無視してた。でもいつも今、今、今、今、今しかなくて、過去も未来も、今だったもの、今になるであろうものなのに。唯一友達といるときは、友達と歩いてるとき、友達と映画みてるとき、UFOキャッチャーやってるとき、ごはん食べてるとき、お店で似合う洋服をお互いの体にあててるとき、そういうときは、今のこと無視してないっておもう。それがひとりでいるときも、0人じゃなく2人じゃなく、ちゃんとひとりで、今のこと、自分のこと、無視しないでできるようになったら、自分のこと好きになって、人からの好きも、ちゃんと受け取れるようになるかな。再洗脳してく。

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