もっと自由な文を、

例えば夏休み最終日の夜に膨大な宿題に取り掛かっている時のような、あの焦燥と諦念の入り混じったギリギリの取捨選択によって脳の焦げ付く匂いが日常のそこかしこに溢れているのだとしたら。AIに人生の一番効率的なルートを尋ねてみたところで奴らは「すみません、よく分かりません」としか言わない。他人の考えていることは分かりません。自分の考えていることもよく分かりません。こんなぐるぐると考えてどこに行き着くのでしょう。どこにも行きつかないように見えて、螺旋状に下に落ちていっているのかもしれません。
人間ってのはそもそも方向性と量を持ったベクトルで表される矢印なんだと思うようになったのはいつだったか。ビルの四階から眼下をわらわらと動く無数の通行人を眺めるうち、ああこれらは要するに矢印の集積なのだなと俺は思った。一人一人が持つ方向性、例えば仕事とか学校とかその人の趣味や経験などそれぞれが足し合わされて一つの行動指針としての矢印を形作る。街は無数の矢印が蠢く場で、社会はそれらが幾重にも重なりあった総体に過ぎない。そんな俺の矢印はどこを向いているのか。ぐるぐると回って滞留している。
それでも時間だけは一方向に進むわけで、よく分からないまま齢22。22歳の俺の中の思想思念の大部分は外界にうまく放出されず、体内を無限に反射している。結果、他人が評価する俺の姿は俺自身が思う本当の自分の数割にしか満たないのかもしれない。ぐでぐでに酔っ払ってしまった時だけ、ゲロと共に体の奥で渦巻いている思想思念が放出される瞬間がある。泥酔。アルコールごときで思考や感覚が狂って外界と自分の境界があやふやになるぐらいなら、世の中の人間は結構みんな死と隣り合わせの綱渡りをしているのかもしれない。自分の内部と外界、すなわち彼我、というあやふやなボーダーラインは実際のところ抜群に保証されたものではなく、持ち主の感覚のバグによっていくらでも狂う可能性があることにある時気付く。
俺は人生を何か意味のあるものにしたかった。それは俺にとってか他人にとってか社会にとってかその全部にとってなのかは分からなかったけど、それが人生の締め切りにずっと追われているかのような焦慮の正体だったように思う。ただそこには常に意味のある人生などどこにもないという諦めが付き纏っていた。端的に言うと、どうせ一回の飲み会で数千円飛んで行くのなら馬券の買い目を千円ぐらい増やそうがあまり変わりはない、みたいな全てを単一の貸借対照表で図ろうとする種類の諦め。ぐるぐる考えたところで答えは出ないのかもしれないし、俺が叫んだところで世界は何一つ変わらないかもしれないし、毎日が穏やかであれば割と幸せだし、それなら何も考えなくていいんじゃないの、という声が常に響いていた。俺は自分の人生に過分に期待をかけると同時に、自分がその責任を負うのをどこかで恐れていたのかもしれない。その渦巻く感情の全てを文章にぶつけようともがき、それでも大部分は他者に見られることを前提とした虚飾に過ぎなくて、辛うじてその中に俺の真意が混じっていることを祈ってキーボードをカタカタと動かしている。

最近は何か毎日結構楽しくて、俺の人生と俺の自意識とが初めてうまく肩を組んで二人三脚で進んでいる感覚がし、なんか全てがどうでも良くなってしまっている。いきおい人生に対する焦慮も幾分か少なくなって、でもそれがそもそも文章を書くガソリンでもあったのではないかという若干の不安があり、その不安すらも楽しげな毎日にかき消されてどこかへ行ってしまう感じがある。達観した、というよりはこれはやはり諦めに近い。このまま家事や雑務が溜まっているのに寝転がってYouTubeを見ている休日の午後みたいな人生を送っていいのか。ダメです。ギリギリに始めても遅れてもいいから夏休みの宿題は出すが信念だったはずだ。俺の矢印はぐるぐる曲がっていてもやはり文章を書くことに最終的には向いているのだと思う。意味は最終的に無くてもいいから、途中で死んでもいいから、社会にある無数の矢印に埋もれてもいいから、這ってでも進む。
えらい現実的で前向きなまとめ方になったけど、これすら俺の体内で反射する思想思念の百パーでないのだとしたらどうしよう
なんとかなるかな



よろしゅうおおきに