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土佐の男に愛されていたと知った日

この中村玉緒さんに土佐の女を見た。

笑顔の玉緒さんのイメージが強かった。こんな顔をする彼女はとても美しいと思って眺めていた。
同時に私の顔にも見えた。

生意気で、物をもうして、啖呵を切る。

そんな自分を、全然言うことを聞かない、気立ても良くない、慎ましくない、はしたないと思っていた。

彼女のこの表情を美しい、いいぞと思えたとき私の中にあるこの顔をする女性にも美しさを見出してる。そんな気がした。


そんな風に郷土に思いを馳せていたら、家族のLINEグループに大量に通知。見ると大量に動画が送られている。そこには弟家族が仲良く歌う姿が映る。

にぎやかで、笑いが絶えず、家族が和をなしている。喧嘩や不満を言いながら、煩わしさも抱えながらも、やはりそれもどこか嬉しそうに人との交流を大切にしている。その温もりや心地が、私の中にも確かに流れている。そのことが尊く感じた。

以前は煩わしさと面倒くささしか感じなかった、
郷土。私は土佐が嫌いで、苦手だった。

けれども上京し離れてみるとその良さが改めてわかる。あったかい。絶対的安堵と土着の心地。これは、離れて見ないと分からなかった。

土佐の男はしょうもないに
どおいて結婚できるが?

博打好き、誰かに振る舞うのが好き、酒好きの土佐の男が何故結婚できるのだろうみたいなのがずっとあった。

だらしがなくて怠け者でお金を使ってくる男と
働き者で元気な叱咤激励の女(はちきん)
は土佐構図でよくみる男女パートナーシップだ。

私には昔から何が魅力なのかさっぱり分からなかった。何が魅力なんだと。土佐の男が特段あつかましいのは、怒鳴られ叱られ尻を叩かれうだつが上がらんとされていても、ちゃんと女を惚れさせている所にある。そこが気に食わない。何もカッコよくない、なにも成してない。成してたとしてもカッコつけて見せちゅうだけ。その皺寄せは横におる女にくる。土佐の男のこいつらの何がいいのだろう。よく土佐で見るこの現象はなに?

今日謎が解けた。
土佐の女が惚れ込む要素。

愛嬌(純粋な少年性)と
仲間のためなら一肌も二肌も脱ぐような
天晴れな気質。

郷土を離れてみて、こういう男は他の土地にいなかった。そして、愛嬌とゆるされ力みたいなのを感じさせる男はほぼいなかった。つい許しちゃう、なんてそんな不平等なことは許しません、という姿勢(山羊座み)だった私。公平が愛だという世界線に馴染みがあるもので、「許しとうせ」「どうぞこらえてや」の可愛げで許しちゃうの都合良いはずがなかった。
許しちゃダメのものだった。エコひいきは、私の馴染みある信念に反した。認めると世界が反転しちゃうのだ。

でも、ついゆるしちゃう、やわされる、というこの調和の力が土佐の男にはある。

誠実だから、いい人だから、すごい人だから、やわされるとかじゃあないのだ。もっと熱っけと親しみと愛嬌にやわされるのだ。土佐を感じるのだ。

心底、惚れたことが私がなかったのは、父(男性)にミを表さなかった。綺麗なことや、回収できて整理できていることは伝えられても。心底、本音も本心も底も合わせた“ミ”を表したことがなかった。
父もそうだったが、私が“ミ”をあらわすと抱きしめてくれた。ちゃんと包むが起こる。ミ”を私が表現していなかったのかもしれない。大切にしようと思った。

男は女が“ミ”をあらわしてやっと実体感を持つ。やっと包むことができる。やっと。それまでは、男も女の実態がわからず、幽霊のような存在なのでイメージを膨らせたり、「???」よくわらないと言うことが起こる。なので、女はちゃんとここにいる、と言うことを“ミ”をもって知ってもらうことは男を知る機会でもある。そんな自分を洗いざらい出して見せ、そうかと微笑み包んでくれるのは、男なのだ。


父の話。

私は父に怒りたかった。
離婚して、会いに来ず、自分の意見も想いを言わず、ただ私たちを想って祈っていたやさしい男に怒りたかった。「てめえ会いにこいよ」「抱き返せよ」怒りが爆発して、最後に出てくるのは「私のこと、すき?」だった。悲しいは言える、愛してるも言える。なのにだけ出てこなかった。諦めていた。お前に言っても無理だよな、と。いつしか父として見なくなり名前で呼ぶようになった。愛ある揶揄いをするポジションで暫くいた。娘であること、父であることを確認しないまま人間的に面白いやつと思って親交してきた。
このパターンは恋愛にも面白いほどに出ている。
昨年電話して娘と父のやりとりを人生で言っても久しい体験をした。それでもまだ、怒りたりなかった。この世で一番に恋をする異性が父ならば、私は父をやり遂げなければ。それはとても大切な意味を持つ。愛する人を愛する人として見るためだ。誰かの面影を探し、恐れから免れるために相手を歪曲して見る投影はもうご馳走様なのだ。

噴出したのを感じた恋愛はいつも、投影を教えてくれる。〈今〉を見るための終焉をいつも差し出してくれている。




土佐の男を愛せた日

罵られ怒鳴られても喧嘩にならないのは、愛嬌でくるっとまるめられる土佐の男の可愛げにある。父は怒鳴られ理不尽に怒られてもそれを歌にして酒のネタにしてみんなの前で肩を組んで面白おかしく話す。女が鬼になっていたとしても、そのペースを崩すことが出来るのが土佐の男っぽいのだ。鬼と戦わない。嘘をついたり誤魔化したりもしない。自分のめでたい天晴れなペースでやわすのだ。これはなかなか出来ることじゃあない。そこにおっきな懐をみた。

私は土佐男や父をうだつが上がらない男だと思っていた。でも実は醜態を晒しても、それをまるっと包んでいる愛嬌があった。私好みのタフでロックな男臭さはないけれど、肌感とぬくもりとめでたさ。こちらが怒りや悲しみでいっぱいになっていても、マイペースで愛でたいものだからついのせられ一緒に笑ってしまう。やめてくれよ、とおもう日もある。でも、そのやわす愛嬌と、あっぱれな気質に包まれていたのは私の方だったのだ。その前が切れない感じに、だらしないと思っていた。が、違う。これは土佐の男の、愛嬌だった。そして、その男性の気質はまさしく私の男性性でもあるような気がした。

純粋性と愛嬌と天晴れな気質。
これが土佐の粋な男。

大地にしっかり根ざして元気な女やき、天晴れで純粋な漢気質に惚れたがやろうか。そこで栄えて営みが生まれて根付いた土地ながやろうか。

男の可愛げが残る土地。
それが土佐と言うてもえいきがする。

この土地の男とは絶対結婚しない!と上京した私よ。今、郷土の男を、風土の愛を感じちゅうがやけんど、これからどうするで?


春分近く、祖霊に大ばぶれをする。

弟夫婦は来年また新しい子供が生まれる。7人家族だ。めでたい。今日そんな弟家族の動画が送られてきた。最初は嬉しくて、込み上げて泣いていた。

そんな郷土を想った夜だからか、祖霊が集まっているのを感じた。郷土の霊たちが私の周りにいる。コンタクトをとってくる。その暖かさ。仲間だよの感覚。いつでも帰っておいでの感覚。すると私の涙はめでたい涙ではなくなった。郷土の祖霊におおばぶれをした。

なんでだ!なんで!!!わたしも普通に暮らしがしたい!わたしも結婚して子供が産みたい!!!!何も知らずに生きたかった!!!なんでみんなの苦しみを感じなきゃいけないの!なんで!!なんで私はみんなと同じ幸せを感じられないの!!!!なんでみんなから出なきゃいけないの!!なんで私は離れてやらなきゃいけないの!!!!やだ!!!と大泣きした。
昨年、一昨年なくなった祖父と祖父母を感じた。私が唯一甘えられたのは祖母だ。私を一番に甘やかしてくれたのは祖父だ。そんな自分に自分でびっくりする。そこにはちっさな自分がいて、ぬくもりにほだされて感情を爆発させて甘えている私がいた。分かる、これは甘えなのだ。知ってる。それを受け入れてくれることを、私は知っている。だから理不尽でも、おおばぶれが出たのだ。

大地の感覚が、私をひとりにしない。
大地の、この流れるものがわたしを一人に感じさせない。感じさせてはくれない。

それぐらい、あったかくて、時に煩わしくて、安心感のある存在達。本当に意識が飛んでしまっている時は夢にまで出てきて祖父が抱きしめてくれる。夢で私がばぶれて怒って泣いていても抱きしめてくれる。
その存在達が大切にしてきてくれた場とエネルギーが家族だ。同郷だ。ルーツだ。

今日という日、わたしは土佐の風土と、土佐の男と、父を実は愛していたと知った日。

守られて、秘めて、可愛く生きたいと願っていた想いは散りゆき。「あんた!しゃきっとせんかえ!!」「しょうもない!!!!あんた今日も魂で生きよ!!」こういうわたしの気質に降参していこうとおもった。そう、私はもっとハキハキ物言いをしてパートナーが本領を発揮して、私も容赦なく発揮していたいのだ。土佐の男のいごっそうには、はちきんあり。こくいう勇ましい女がいたと言われている。

そう、土佐の男を愛せたということは、土佐の女も愛し赦したということ。

よりパワフルになりそう。天晴れでやわす、愛嬌あるひとの尻を叩いて私は私を発揮できますように。

郷土のこの感覚が私にも流れているということ。
ぬくもりを感じながら、生きる。



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