「もっと」は、防波堤を越えて
「もっと、もっと」波打つ声は、心の防波堤を超えてきてあっという間に“わたし”を呑んでしまう。
そういうことが経験としてある。経験したことない現象との対峙は赤子からスタートする。それは、小さい頃と同じ反応を引き出すのかもしれない。例えば、すくむ、固まる、助けを求めて泣く、癇癪を起こす、引き付けを起こすなど。
その波に呑まれているとき、大人になった私たちにとって厄介になるのは波そのものではなく、その陥っている状態を認識し早急に分別を下そうとすることにあると思う。
「これは何が起こっているんだ?」「だめだめだめ..」「きっとこういうことだ」「そもそもなぜ..」「これは神の罰だ」etc.
理解として捉えられない状況の中で、早急にジャッジや決断を下すことほど、全体への理解から離れていくことはない。
そのアプローチで安心するのはマインドだけ。
マインドそのものが自分だと思っていると、マインドを収めることに全注ぎをしてしまう。
お化けだと思ったら実は影だった、などはその例である。よく見つめると終わる混乱を、すっ飛ばして結論づけてしまう我々の利点はなにか。
以上ぐらいではないか。
少なくとも私はこの二つかなと思う。
自己面積でいうと一部安心しているが大半は、常に緊張している状態なのだとも言える。これでは、本当の意味で神経が休まり、安定し、整った状態を生み出すことは難しい。
一部に安心を見出す、と言う状態では神経はどうなっているか。通常は満遍なくエネルギー供給をされている神経が、一部に過剰なエネルギーを注いでいることになる。(→神経質)
他の箇所はエネルギーの供給ができなくなるので、結果、精神や肉体においてもアンバランスさを生む。
過去の自分に伝えてあげたいことがある。早急な結論づけから生まれる安心は気休めだ。それは濡れた肌につける絆創膏のようなものなのだ。
気休め(絆創膏)が剥がれたなら、また新しい絆創膏が必要だ。つまり種類の違うジャッジや意味づけを必要とする。
そうして必要な刺激は増えていく。
刺激に刺激を重ねて相殺するという“ムヒ”のような着想と発想のアイテムが、心や精神の中でまかり通ると思ってしまう。
たとえ刺激が微細なものであったとしても、刺激とは仏教的に突き詰めていけば“苦しみ”だ。心にムヒを塗るたびに、苦しみを反復し、量産していることになっているのだ。
安心の脈動に耳を傾けて
よく見つめることで分かることがある。安心の脈動に入り、全体性から見つめるとその状態を起こす構成や原因が浮き出てきたりする。そこから理解し、コヒーレントなままその場にいることが出来る。
そのとき初めて、マインド、神経、ハート、精神などありとあらゆるパーツがゆるやかに穏やかになる。
「もっと、もっと」は波を呼ぶ声。
少しの波なら海水浴やサーフィンが楽しめる。それが高さ15mの大波としてやってきたらどうだろう。海に対する呼びかけは「もっともっと」ではないのかもしれない。呼びかけは祈りのレゾナンス。一体性に開かれたものだと感じている。遊ぶ、調和する、呼吸をするように一体感を味わうことに、波と遊ぶという真があると思うから。
「もっと、もっと」という波を呼ぶ声の、事の大きさを知っておきたい。その波に溺れてしまわぬように、海を悪ものにしてしまわないように。
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