ぼーびろく。

愛する自分を、眺めている。
その空間そのものをじいんと感じている。

時間や【ある•無い】が消えていく。

そんなとき、
いろいろなものがわたしから去っていく。 
詰まっていたものや少しの我慢などの意も、
精製の壁を越えていく。

微笑んで包んでいるような、ホールそのものになっている。

神聖な理を無理して受け入れようとする時、そう思おうとするとき、ナニカまだ感じきれていない、吐き出したいものがある。そのフラストレーションが満タンになった頃、その神聖な理自体を〈嘘だ〉と弾圧しようとする。そして、いよいよ神聖な理を「嘘だ」という自分自身そのもの弾圧し、信じられなくなるのだ。

神聖な理を《綺麗な嘘》化してしまうのは実は、自分の心だということが認められない。そのことに、葛藤があり、苦しみがある。そんな事実を受け入れれないことが起点となっている。少なからず、私はそんな経験をしてきた。

そう思おう、そうしよう、そういうことにしよう、と置きにいくとき決まってまだ見つめていない、見つめ合っていないものがあるのだ。

納得していないのに納得しようとするそのとき、そのの嘘を了承することになる。
そのとき、一番苦しいのは嘘そのものではなく、神聖さ(美と言ってもいい)を大切にしたい、大切だと知っている《私》なのだ。

二重三重に色を重ねていくと、もうなにがなんだかわからなくなる。収拾がつかない事態になるとき、混乱し、投げ出したくなり、何かのせいにしたり、生きていることそのものまで遡り生存の定義を問うこともある。私はそういうことをしてきたし、やってきた。

闇に光を見出す《転換する》力が聖なる力なのだ、と言い切れるのは、まさしく実体験が補完している。

そういったものを、ふんふんとみて、ながめ、軽やかさが広がると、ことの重要さはフェードアウトしていく。「体験しろ」「味わいきれ」ということもある。そんな時は反射的なもの(メロドラマやカルマティックなもの)に巻き込まれている。その時に有用なのであって、ハートの心地が永続的に広がっているその時、それは必要ないのだと思う。なぜなら、それを理解した感受の心地にある時こそ、ハート(スピリット)でまなざしを向け、包んで、在るのだから。

素直さや愛という事実に、委ねることができない時、苦しい時、もがき、わかりたくない時「体験せよ」なのだ。「で、一回死ね」なのだ。

そうやって硬くなったものや分離を見出すものを見つめ、そんなノンフィクションとしてしたものを暴いていく。

脱いで脱いで脱いでいく。私のそのパワーはどこにあるか。

そんなフィクションより大切なもの、大切にしたいものがあるからだ。だからこそ進んで剥がせるのだ。
それは、目の前を純粋に見たいということ。相手を、世界を、今を、ありのままみたい。その気持ちが余裕で勝るからである。この気持ちや想いが、肌化したアイデンティティの皮を剥がさせてきた。この気持ちのみである。自分のために、という気持ちが弱いのだ。自分を大切にするならエゴでもいい。できる。理想も特に高い方じゃない。ただ、なにより、目の前の純粋性がみえないことが悔しくて悔しくて、嘆かわしいのだ。目の前の大切にしたい人が私の皮剥のきっかけをくれていた。

不信や罪悪感や嘘から始まった相手の想いに同調することこそ、薄情だとわたしは思う。誰かの(自分であっても)自己憐憫に加担することは、意地悪だ。そんな風に思うからその時私は、黙るか、言う。
「そうなんですね」という相槌は打つかもしれない。でも「そうだよね」と同調と加担はしない。
無責任なことはしたくない。相手にそれを真実だと信じることを手助けすることにもなるから。そういう自分を不器用だとは思うけれど、嘘はつきたくないのだ。

「一回死ね」と必要としている相手と向き合う。毒には毒が効かないように、必要毒みたいなものがあるのだと思う。それはこの世だからこそ有益で、天国やスピリットの世界ではまかり通らないやり方だろうと思う。でもそれが人間的な、人間として生まれてできる泥臭く不器用な、愚直な愛の伝え合いだともおもう。

世界にとってできることならば、活かせるのならばいい、という境地に最初から立てたわけじゃない。でも、活かし切ることをしなければきっと私は死ぬ時に後悔をする。活かし切る、出し切る、ということが私の人生の意味。納得感。そしてそれは、わたしのエゴを脱ぐものでもある。それを決め込むまでは辛い。生半可ではできないこと。ごまかしの効かないこと。そこにかける自分の想いが、残忍で恐ろしく冷たいもののわけがない。

癒しと創造性はまたちがうことを胸に。

痛みはスピリットではないということを自覚して
明日も生きたいと思う。

じーんと包む静寂の夜に。

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