まつりのあと:2_②
アルコールを飛ばす目的で母校に足を運んだ。奈美の店からは一キロほど。自動販売機で買った水を飲みながら、真子と並んで、ゆっくりと歩いた。
高校の校舎は、鉄筋コンクリートの四階建て。老朽化で、来年には建て替えが始まるらしい。今見ておかないとなんて、微かなセンチメンタリズムが浮上する。
「部室もなくなるんだね……もう入ることもないんだけどさ、寂しいね」
校舎の西の端を見上げる。真子は頷いて、私の手をぎゅっと握った。余りに懐かしいシチュエーションで、うっかり笑いを零してしまった。
「女同士で手え繋ぐの、久しぶり」
「私も……中学ぐらいまでは、よく繋いでたよね。廊下とかで」
「教室からトイレ行くまでの短い間ね。あれ、何だったんだろうね?」
「ホントに」
言って、真子はブンブンと繋いだ手を動かした。そしてピタリと止めた。
「ハルが演劇部入らなかったら、私、何部に入ってたんだろ?」
「剣道やってるのに剣道部じゃないってのが、私は衝撃だったけど」
「道場のほうが良かったし」
「私は放送部に入りたかったんだけどね。まさか入学と同時に廃部になるとはね……」
浩太と真子は、剣道部に入ると道場に通えなくなるからという理由で、演劇部に入った。二人とも三年間裏方で舞台を支えてくれた。奈美は衣装、メイクを担当。私は音響をやりたかったけれど、すでに先輩が担当していて、キャストに回された。
部は所謂弱小で、部員も部費も最低ライン。地区大会に出るだけで精一杯だったけれど、それでも充実していた。高校時代の楽しい思い出は、全て部室にあると言って間違いない。
「ハルはさ、演劇部だったから、今があるって感じだよね」
「だねえ……ここで先輩に会わなかったら、考えなしに家を出るなんてできなかった」
「でもハルらしいなって思ったよ」
「バカだなーって?」
「うん」
「バカだよねえ」
「でも凄いなって……ハルはハルのまんまでいいよ、ずっと」
「バカのまんまで?」
「うん。ハルが変わらなくて嬉しいなって」
「そお? 年甲斐もなくって感じじゃない」
「こんな金髪似合う人、滅多にいないよ」
真子は私の髪をサラリと持ち上げ、宙に遊ばせた。特にポリシーでもなく、ただなんとなく続けている金髪だけれど、真子に似合うと言われたら嬉しい。
最後の舞台で、私は外国人役で金髪のカツラを被った。あの時の色味よりも、今の方が明るいかもしれない。おぼろげな記憶を辿り、最後の舞台の台詞を思い出す。真子と腕を組んだまま、あの頃の再現をしながら、駐車場へ向かった。
***
アルコールの匂いを確認し合い、念のために、と缶コーヒーを飲んだ後、真子を見送った。私はバイパス沿いにあるドラッグストアへ。充血は治まっていたけれど、目薬を買った。
広い駐車場を出て、目的地を定めず車を走らせる。初めて運転席から故郷の街を見たのは、もう十年も前だ。その時よりも、街は物寂しくなった気がする。
初めて買ったのは、軽のワンボックス。なかなか年季の入った中古車だった。東京住まいで車を持つと財布が寂しくなってしまうけれど、満員電車の不快感から週末だけでも解放されるのなら構わないと思った。強化プラスチックの屋根があるだけの駐車場。納車された日は、盗まれていないかどうか、何度も確認した。
三年前に買い替えたのは、菱形のエンブレムのフランス車。国産のワンボックスと比べると、色味も形も相当洒落ている。乗るのが少し恥ずかしかった。まさか自分が、誰かの影響を受けて車を選ぶなんて想像もしていなかったから。
この子とは、まだサヨナラしなくていいよね?
半年前、男と別れた。三年半の付き合いだった。バイト先で知り合った人間の友人で、欧州帰りのウェブデザイナーと名乗っていた。十歳近く年上で、華やかな雰囲気を纏っていて、私とは全く違う世界に生きている人間。向こうからしても、私は「ただの人」くらいの価値しかないだろうと思ったから、何の気兼ねもなく話せた。素でいられるというのは、非常に楽だった。そういう関係でしかない、と思っていたのに。
恋をしていると気づいたのは、彼の前で、素ではなくなる自分を意識した時だ。ふたりで食事に行くようになり、三度目のこと。初めて車の助手席に乗せてもらって、彼の存在をすぐそばに感じて、急に胸が締め付けられた。
いつの間にか、最初の一杯はビールではなくワインを選ぶようになっていた。タバコを吸わなくなった。彼といても恥ずかしくないと思える服を選ぶようになった。話し方が丁寧になった。自分が新しくなったようで、それが幸せだと思っていた。
異性としての男とは距離を置いて生きていたつもりだったし、悪い男を見て育ったから、慎重に相手を選ぶ目を持っていると思っていた。それなのに、私を「幸せな女」にしたのは男は、既婚者だった。
本当に、わからなかった。ネット上には既婚者の見破り方なんて記事もあるけれど、そこに書かれた注意事項など役に立たなかった。彼は完璧に【独身】を演じていた。彼の奥さんが私の前に現われなかったらと思うと、本当に恐ろしい。この男の子供なら産んでもいいなんて、思っていたから。
ホントに汚い男……奥さん、大丈夫かな?
あの男の今より、涙ながらに私に別れを迫った奥さんのほうが気になる。あの時、奥さんのお腹は膨らみを持っていた。もう産まれているだろう。あの男は父親という重責を受け止めているのだろうか。愛人を作っておきながら妻を妊娠させるような男なんて、死ねばいい。けれど死んでしまったら、あの奥さんは悲しむんだろう。
自分がそんな経験をしてしまったからだろうか。夕べ、あの女に対して若干の哀れみを抱いたのは。辛くないわけがない。誰も祝福してくれない愛なんて、存在してはならないのだから。あの女は、それでも父の子を産んだ。息子は父に似ている。顔だけではない。肝の据わった怖い者知らず。そんな子がそばにいたら、嫌でも父を思い描くだろうに。
どんな顔を見せていたんだろう
父は、あの女に、少年に、笑いかけたのだろうか。一緒に遊んで食事をして、レジャーも楽しんだのだろうか。私達の知らない父の顔を、あの二人は知っているのだろう。
知らなくていい……知らないほうがいい
全て過去だ。私に残されたものと他者に残されたもの。それぞれ違って当たり前。誰かの記憶に価値なんかない。私の記憶も、他人にとって価値なんかない。
赤信号。ブレーキを踏んで、思考も停めた。
大音量でロックを流して走り続け、気付いたら夕方。異様に喉が乾いていた。目にとまったコンビニに入る。ビールを飲みたい気分だったけれど、そんな馬鹿な真似するほど幼くはない。強炭酸のジュースを買い、車に戻る。
数時間放置していたスマートフォンをチェック。奈美と真子からメッセージ。返信して息が漏れた。二人とも優しい。文章までが温かい。私は充分幸せ者だ。
スマートフォンをバッグにしまう寸前、着信アリ。浩太。
「今起きた? なワケないか……ああ、うん、真子はとっくに帰った…………あー、了解。じゃ今から行くわ」
通話を終えて、頬が緩んだ。今日は家に戻らなくて良い。ありがたい。私は約束の場所に急いだ。
***
酒屋に寄って白、赤、二種類のワインを買い、私は浩太の家に向かった。庭の裏手にある空き地に車を停め、家の裏口から入る。
「おっじゃましまーす!」
「おお、お疲れ」
「今日は疲れてないけど。これ、ママに」
「気い遣わなくていいのによお。んでも美味そうだ」
浩太は実家にいると【訛り】が戻る。非常に微笑ましい。
「ママはもう店?」
「今買い物だ。すぐ帰ってくっから」
「んじゃあ……始めますか?」
「んだな!」
浩太は太陽みたいなヤツだ。湿り気の多い場所にいる私にも、容赦なく光を注いでくる。浩太の母は更にカラッカラに明るくて、ジワリとした温もりのある人。私はずっと、ママと呼んでいる。母のことは幼い頃から母さんと呼んでいるから、躊躇いなくママと呼び続けている。
ここは、大切な私の避難所。兄と姉が家を出てから、実家は、どうしようもなく居心地の悪い場所となった。徒歩十分で辿り着けるこの場所がなければ、学生時代の私は、一体どうなっていたのだろう。
『ご迷惑かけないようにね』
私が【行ってくる】と言って家を出る時、母は必ずその言葉を私に投げた。あれは、一種の信頼関係が成り立っていた証なのだろうか。浩太はイイヤツだから、全く知らない人間の家に入り浸られるよりは良いと、判断しただけなのだろうか。
私は、自分の異性関係について、父からも母からも口を出された記憶がない。自分から相談した記憶もない。しかたが、わからなかったから。けれどママには、ほんの僅かだが本音を漏らすことがあった。あの失敗についても吐露できたら、身軽になれるのだろうか。
開店前のスナックに、浩太はBGMを流し始める。
「これって、オリジナル?」
「そう、いいべ? 今度の短編で使うつもりだ」
「この感じからいくと、青春もの?」
「んだ」
「手伝えることあったら声かけて」
「あるある! まとめて頼むわ」
「できる範囲でね」
おう、と笑って、浩太は体を揺らし始めた。
浩太は東京で、小さな映像制作会社に勤めている。そのかたわら、仲間達と映像作品を創り、いずれは地元を題材にした映画を撮るのだと、忙しく過ごしている。
私は、浩太の個人ホームページを管理している。ウェブサイト制作の知識を持てたのは、浩太のおかげ。浩太が自分のHPを開設したいと言った時、何か手伝おうかと私は口にした。浩太は、じゃあホームページ作ってよ、と軽いノリで依頼してくれた。とりあえずやってみるか、と手探りで始めた作業だった。
素人でも理解できそうなテキスト本を買い、ネットで色々なデザインを見て、とにかく試しにやってみた。思ったようにいかなくて悪戦苦闘。それでも、演劇部時代の【お手製感】を思い出して楽しくて、夢中になった。
アルバイトをしながら、とりあえず東京で生きている私に、浩太は光を与えてくれた。夢中という感覚は疲れを麻痺させるやっかいなものだけれど、それがなければただ毎日疲れて眠って、それで終わり。
浩太とママ、親子揃って私を支えてくれている。二人に恩返しできるとしたら一体なにがいいのだろう、なんて、本気で考えてしまう。人に恩を返せるほど、成長していないというのに。
「ハル、何飲む?」
「作れんの?」
「簡単なもんはな」
「じゃあ、ジントニック」
「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」
「似合わな過ぎてキモイ」
「うるせっ! つーがトニックなんてもんがあんのか、この店は?」
自分で創った曲を口ずさみながら、浩太はカウンターの向こうでゴソゴソと冷蔵庫を探り始める。食べ物を探す熊のようで可笑しくて、私は店で一番大きなソファーにダイブした。柔らかなシートに顔をうずめ、笑う。
「お待たせしましたー、ジントニックでございます」
両手にグラスを持って、浩太がやってくる。向かい合って座り、乾杯。
「! 濃い! 味見した?」
「カクテル味見するバーテンいねえべ。どれ……ホントだ、濃い! トニック足す?」
「いや、このまんまでいいよ。遅かれ早かれ酔うんだから」
もう一度、乾杯。二つのグラスはすぐに空となり、そのタイミングで、ママがカウンターに現われた。
「あらーハルちゃんだ! いらっしゃーい」
「こんばんは。お邪魔してます」
私はママのもとへ向かい、姿勢を正した。
「お通夜の時は、ありがとうございました……助かりました」
「いんだよ、気にしなくて! あれでいんだがら。誰も笑わねえよ」
「あんなになるつもり、なかったんだけど」
「普通だべ、あれが。通夜で爆笑してる喪主なんていねえよ……頑張ったね」
「まあ、なんとか」
「今日は思いっきり飲んでいいんだがら! 喪中? 関係ねえ関係ねえ、師範なんて年がら年中飲んでだんだがらさ。浩太! アンタは、ハルちゃんさつまみも出さねえで」
「俺も客だ!」
「いいがら! 早く出せ!」
「それはおめえの仕事だべ!」
二人のバトル。私はそれが大好きだ。口調は激しいけれど、二人とも笑っているから。
私は、両親と口喧嘩をしたことがない。兄も姉も同様。大人の言葉に逆らわない。それが我が家の暗黙のルール。初めて破ったのは、私だ。
高校三年の一学期、三者面談。担任と父の前で、私は東京に行くとだけ言った。何のためにと問い質した担任に、言ってから考えると答えてすぐ、父の平手が飛んできた。あの時の一撃が人生で一番痛かった。父も母も、私は大学に進むものだと思っていた。そんなこと、一度も口にしていないのに。
あの時私は、確実に父に恥をかかせた。痛みより喜びのほうが大きかったと思う。担任の慌てた顔と、父の怒りに満ちた顔。その対比が可笑しくて、笑った。
『ご両親と、ちゃんと相談しなさい』
次の日担任に呼び出された。私は返事をせず、地元の就職先一覧を眺めていた。高校卒の初任給は、十万にオマケがついた程度。東京に出てアルバイトをしたほうが、よほど稼げると思った。
父は、面談以降私に声をかけなくなった。母は、私達の間に入ろうとはしなかった。それで良いと思った。卒業式の次の日、リュックサックと小型のトランクひとつ持って、家を出た。
馬鹿で怖いもの知らず。完全な子ども。今でも根本は変わっていない。変わっていないから、実家よりもママの店が好きだ。
「ハルちゃんワイン飲む? って、ハルちゃんが持ってきてくれたヤツだけど」
「まだ。浩太がバーテンの真似してんの面白いし。ねえ、ママにも作ってあげたら?」
「はあ? いんだよコイツは。好き勝手に飲んでんだがら」
「まあそう言わずに……ママ、何にする?」
「何だべな? あんまりカクテル飲むお客さんいねえがらなあ。私も洒落たもんはわがんないし……ウイスキーのロックでいいよ」
「だってさ。それ二つお願いしまーす」
私とママはカウンター越しに顔を寄せ、浩太にブイサインを作って見せる。浩太は呆れ顔を見せた。耳元でママが笑いを漏らし、つられて浩太が笑い、私も笑った。
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