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藤子・F先生のターニングポイント - 「ミノタウロスの皿」と「ドラえもん」が描かれた1969年


1969年のF先生

藤子・F・不二雄先生が、初の「大人向けSF作品」として、1969年に「ビッグコミック」で発表した短編が「ミノタウロスの皿」です。そして、同じ1969年の末には「ドラえもん」の連載が開始されています。

ちなみに、この「ドラえもん」の連載当初について、F先生はやや自虐的な言い回しで次のように書いています。

誰にも注目されず、ひっそりとスタート。

初出:中央公論社「愛蔵版 藤子・F・不二雄 SF全短篇 第1巻 カンビュセスの籤」

「ドラえもん」は、小学館の学年別学習雑誌1月号」より連載が始まったので、1970年(昭和45年)連載開始と書かれていることもありますが(F先生ご自身も上記引用元で「昭和四十五年」としています)、その発売は1969年12月なので、連載が始まったのは1969年です。

F先生も書かれているように、「ドラえもん」も当初は本当に「ひっそりとスタート」でした。学年別学習雑誌というのは、漫画雑誌とは異なります。基本的にその学年の子どものみ読むように作られた雑誌です。そんなマイナーな存在だった「ドラえもん」が、1970年代から次第に、子どもたちの間でじわじわと人気を集めていくことになります。

1973年に放送された1度目のアニメ化は、F先生自身は決して気に入っていなかったとも言われていますが、その翌年発売された単行本が大ヒット。1977年には「ドラえもん特集」ともいうべき「コロコロコミック」が創刊。1979年の再アニメ化で爆発的な大ヒットになるのですが、1969年時点では「ひっそりとスタート」だったのです。

のちに児童漫画の金字塔、そしてF先生にとって空前絶後のヒット作となる「ドラえもん」と、初の大人向けSF・異色短編ミノタウロスの皿」が、全く同じ1969年に誕生している事実だけでも面白いのですが、わたしがnoteで藤子話を書き始めるきっかけにもなった藤子Fノートさんが、さらに興味深い分析をしておられます。それは「21エモン」の存在です。

この「21エモン」は、雑誌「週刊少年サンデー」で、F先生自身は意欲的に連載開始したものの、読者の人気は今ひとつで、残念ながら連載は1年程度しか続きませんでした。この作品の連載が終了したのも1969年です。

「21エモン」の連載終了後、前年から学年別学習雑誌で連載が始まり、アニメ化も決まっていた「ウメ星デンカ」が「週刊少年サンデー」でも連載されますが、こちらも半年程度で終了しています。

その後、F先生が「21エモン」で描き残した素材を使いたいということで、これまた1969年に連載を開始したのが「モジャ公」です。F先生自身が「二番煎じ」とまで言い切っています。F先生は「週刊ぼくらマガジン」から新連載の依頼があった際、次のように答えられたそうです。

"21エモン"を続けたいんだけど。もちろんキャラクターも設定も変えます。でも中身は二番煎じになるけど。いいかな?

初出:中央公論社「愛蔵版 藤子・F・不二雄 SFギャグ モジャ公」

わたしも「21エモン」→「モジャ公」の流れについては理解していたのですが、藤子Fノートさんはさらに踏み込んで、「21エモン」から繋がる系譜上に位置するのが「モジャ公」と「ミノタウロスの皿」の2作品だという、鋭いご指摘をされていて、目から鱗の思いでした。

確かに考えてみれば「21エモン」と「ミノタウロスの皿」は、主人公が「赤丸ほっぺ」であることを除き、全く同じ顔立ちですし、宇宙を旅するという展開も似ています。大人向け作品として再構築した「21エモン」こそ「ミノタウロスの皿」だと言えます。

「21エモン」自体は幼い頃から愛読していたのですが、「ドラえもん」開始の直前に連載終了したことが、頭から抜け落ちていました。タイトルに「えもん」と「エモン」が含まれることから、「ドラえもん」が先で、その亜流的な立ち位置で「21エモン」が描かれたと、幼い頃は誤解していたくらいなので、正確に連載終了年を押さえていなかったのでしょう。むしろ逆で、連載を続けたかった「21エモン」への思いが、「ドラえもん」の名前として継承させたと見ることもできます。(これは個人的な推測です)

そして始まった「モジャ公」は、小学校低学年向けの雑誌「週刊ぼくらマガジン」で連載されたのですが、F先生の描く低学年向け作品にしては「やりすぎ」と言っても良いくらい、非常にダークな展開の多い作品です。

ここでもう一度、1969年の時系列について整理しておきます。

  1. 「21エモン」連載終了
    「週刊少年サンデー」第6号(1969年1月頃発売)

  2. 「ウメ星デンカ」連載開始~終了
    「週刊少年サンデー」第7号~第35号(1969年7月頃発売)

  3. 「ミノタウロスの皿」掲載
    「ビッグコミック」1969年10月10日号(9月発売)

  4. 「モジャ公」連載開始
    「週刊ぼくらマガジン」創刊号(11月発売)

  5. 「ドラえもん」連載開始
    「学年別学習雑誌」各誌1月号(12月発売)

当時のF先生にはヒット作がなかった

1969年当時、わたしは生まれていないため実際に見たわけではありませんが、その頃の連載状況などから考えると「藤子不二雄」は、まだ人気漫画家の地位にはあったのでしょう。

ただし、大ヒット作となった「オバケのQ太郎」の連載が終了した1967年からの2年間、その人気を支えていたのは、数年にわたり連載が続いていた忍者ハットリくん」や「怪物くん」など、どちらかというとA先生の作品が多かったようです。

とはいえ、これら人気のA作品も、1968~69年にかけて相次いで連載が終了します。「藤子不二雄」は、作品が複数アニメ化される人気漫画家ではあったものの、まだ盤石とはいえない、そういう時期でした。

この頃のF先生の作品「パーマン」「ウメ星デンカ」「21エモン」は、作者としては非常に意欲的に描いていたものの、残念ながら当時の読者の反応は今ひとつという状況にありました。

特に「週刊少年サンデー」では、創刊号からの「海の王子」を皮切りとして、ずっと連載を持っていましたが、「ウメ星デンカ」を最後に、同誌での連載作品は途絶えることになります。(次は1971年の「仙べえ」)

また、「パーマン」は、当初から「オバケのQ太郎」の後継として、あらかじめアニメ化が企画された上での連載だったため、漫画がヒットしたからアニメ化されたというわけではありません。「パーマン」の人気が上昇したのは、それからかなり後、「ドラえもん」大ブームの中、1983年から行われた2度目の連載と再アニメ化以降だと考えられます。

アニメ「パーマン」の後継として、雑誌連載で人気だったA先生の「怪物くん」がアニメ化され、1年ほど続きますが、1969年3月のアニメ終了からほどなく、連載も終了します。この作品をもって「オバケのQ太郎」から3作続いていた、日曜19:30枠での藤子アニメは終了となります。

上記とは別枠で「ウメ星デンカ」がアニメ化されていますが、わずか半年で終了。その「ウメ星デンカ」最終回放送の数日後に発売された「ビッグコミック」で、突然「ミノタウロスの皿」が発表されるのです。

「骨の髄までお子さまランチ」

F先生が「ミノタウロスの皿」を描く前年の1968年に、A先生が「ビッグコミック」に読み切り「黒イせぇるすまん」を発表しています。その後、タイトルを「黒ィせぇるすまん」と変えて、1969~71年にかけて実業之日本社の雑誌「漫画サンデー」で連載しています。「藤子不二雄」名義で、大人向けのブラックユーモア作品を同時期に発表していたのです。

このように、F先生より少し早く、A先生が本格的な大人向け作品を手掛け始めています。この「黒ィせぇるすまん」は、コンビ解消以降に「笑ゥせぇるすまん」のタイトルでアニメ化され、大ヒットします。今でこそA先生の代表作として挙げられますが、連載当時、こちらも一部の漫画好きは別として、一般からの認知度は低く、ひっそりした扱いではありました。

1968年当時、「ビッグコミック」は2月に創刊したばかりでした。創刊編集長は小西湧之助さん。余談ですが、1965年に起きた有名な「W3事件」当時、「少年サンデー」側の編集長だったのも小西さんです。つまり「オバケのQ太郎」連載中も同誌編集長だったということになりますから、藤子先生のおふたりとは旧知の間柄だったはずです。

そしておそらく、A先生に「黒イせぇるすまん」を描かせたのも小西さんだと思われます。ただ、その後の連載版で他社の「漫画サンデー」に変えた理由はわかりません。

そのように、雑誌「ビッグコミック」は、前年に初の大人向けブラックユーモア短編を「藤子不二雄」に依頼していました。当時「二人で一人」の漫画家として一般には知られていましたが、編集者であれば、それぞれが別々の作品を描いていることくらいは当然知っています。A先生に依頼した翌年、今度はF先生に白羽の矢を立てます。

F先生の元に姿を見せた小西編集長は、大人向け作品を「一本書いてみろ」と言うのですが、それに対するF先生の反応は、F先生自身が後年、大人気漫画家として不動の地位を築いた1987年頃に、次のように書いています。

「冗談じゃない。書けるわけがない。ぼくの絵を知ってるでしょ。デビュー以来子どもマンガ一筋。骨の髄までお子さまランチなんだから」

初出:中央公論社「愛蔵版 藤子・F・不二雄 SF全短篇 第1巻 カンビュセスの籤」

1969年当時、F先生は描きたい作品を描いても、それが子どもの読者になかなか受けない、とても辛い時期を過ごされていたと考えられます。そこに大人向け雑誌から依頼。「骨の髄までお子さまランチ」と表現しているように、大人向け雑誌で求められるような、つまり当時人気があった劇画のようなものを描けるわけがないと、小西編集長に言うのです。

小西編集長は「それでいいから書いてみろ」と言います。「それでいいから」というのは、F先生が書かれている文章の文脈から考えれば、「子ども向けの絵で構わないから」ということでしょう。

ここで小西編集長は、F先生にとある民話を語って聞かせます。F先生の記憶は少し曖昧だったようで「民話特有の残酷な小話」としつつ、「猿後家」と作品名を挙げていますが、これは落語の演目であり、有志の調査では、おそらく「猿婿入り」ではないかと言われています。

F先生は「ミノタウロスの皿」について、その小西編集長が語った民話とは全く別の話ですが「触発されて書いたことは事実」としています。

これが意外に、実に実に意外に好評でした。自分にもこんな物が書けるのかという、新しいオモチャを手に入れたような喜びがありました。

初出:中央公論社「愛蔵版 藤子・F・不二雄 SF全短篇 第1巻 カンビュセスの籤」

現在、単行本や文庫などで読める「ミノタウロスの皿」は、作者の手で大幅に加筆されています。初出の「ビッグコミック」では22ページの作品で、絵柄も「21エモン」とあまり変わらないものでした。

1977年、先日の記事で書いた「ゴールデンコミックス」レーベルの単行本に初めて収録される際、36ページにまで加筆され、ダイナミックなコマや等身が高めのカットが増やされています。F先生は、ご自身が気に入っている作品には、単行本化の際に大きく手を加えることがあるので、「ミノタウロスの皿」への強い思い入れが窺えます。

小西さんは後に「藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版」第5巻で解説文を寄稿されており、絵柄について「それ(子ども向け)でいいから」と言った真意について「かわいい絵だからかえって怖い」と書かれています。実際に作品を読んだ際には「背筋に寒気が走るほど興奮した」そうです。

そして1970年代、大人気漫画家に

ミノタウロスの皿」を嚆矢として、1970年代のF先生は「ドラえもん」を連載しつつ、並行して「ビッグコミック」や「SFマガジン」で大人向けの短編を発表するようになります。これをF先生は「二足のわらじ」と表現していますが、SFや異色短編を描くにつれ、「ドラえもん」にもSFの要素が増えていき、F先生のペンは乗りに乗っていきます

21エモン」を連載していた頃は、F先生の創作意欲が当時の読者とシンクロせず、悲しいことに人気を得ることができなかったのですが、「ドラえもん」は違いました。F先生が乗って描けば描くほど読者の人気もどんどん上がり、当時の常識としてはあり得なかった「2度目のアニメ化」を実現。そこから日本中の子どもたちを魅了していくことになるのです。

パーマン」や「21エモン」などは、連載当時の人気こそ低かったものの、とても面白い作品です。そして「ドラえもん」ブームをきっかけとして、過去の連載作品にも陽が当たることになります。「てんとう虫コミックス」や「藤子不二雄ランド」で次々と復刊され、新たにファンになる子どもたちも増えていきました。わたしもその中のひとりです。

おわりに

わたしが生まれた頃、藤子不二雄先生のおふたりは、すでに「まんがの王様」という肩書がつくほどの大人気漫画家でした。大ヒット作「ドラえもん」の存在が大きいのですが、その作品が生まれた1969年の状況を見てみると、様々な奇跡が積み重なった結果とも考えられます。

もし「21エモン」の人気が低迷していなければ、連載が打ち切られることもなく、そうなると「週刊ぼくらマガジン」や「ビッグコミック」からの依頼があったかどうかもわかりません。

そして「ミノタウロスの皿」が描かれていなければ、その後もずっと「お子さまランチ」と自虐する児童漫画家として、大人向け短編を描くこともなく、場合によっては、「ドラえもん」という歴史的な大傑作を生みだすこともなかったかもしれません。

その前年にA先生が描いていた「黒イせぇるすまん」も、F先生に何かしら影響を与えた可能性もあります。藤子先生はお互いの作品に関して語ることがあまりないのですが、目にはしていたでしょう。ずっと「二人で一人」として、子ども漫画ばかり描いてきた「お子さまランチ」だったのに、パートナーが不気味でパンチの効いた大人向けブラックユーモアを描いたことで、どこか触発された思いもあったのかもしれません。

ところで「モジャ公」には、ブラックユーモアに近いどす黒さが漂っています。小学生向けなのを忘れてしまったのではないかというくらい、当時のF作品としては珍しくグロテスクな表現もありますし、シニカルな視点も散見されます。有名な「エッフェル塔からの自殺が大はやり」とか、最終回に繋がる展開は怪しげな宗教団体が軸になっていたりもします。

これらが、A先生のブラックユーモア作品の影響を受けているというのは、さすがに短絡的かもしれませんが、「モジャ公」で描かれた要素は、そのまま後のSF・異色短編に繋がっていくようにも思えるのです。

大人向けの短編を描くことで「新しいオモチャを手に入れた」F先生が、その後も傑作を続々と生み出し、名実ともに大人気漫画家となっていく様子を史実から振り返ると、1969年が大きな転換点だったことは言えるでしょう。

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