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ディズニーと劇団四季の馴れ初め -「美女と野獣」初演の頃


一般に「ディズニー」と聞くと、舞浜のテーマパーク東京ディズニーリゾートTDR)を思い浮かべる方が多いと思いますが、現在のわたしがイメージするのはアニメ映画の方です。

わたしがミュージカルを観劇し始めた頃、ディズニーのアニメ映画については、意外なことにほとんど関心がありませんでした。子どもの頃から、アニメは日本の作品の方が好きだったのと、ディズニーといえば、ディズニーランドとミッキーマウス程度の知識しかなかったのです。

劇団四季ディズニー作品を上演するようになって、初めてディズニー映画を何本か観てみました。すでにミュージカル熱が高まっていた頃ですから、「これ完全にミュージカルじゃん!」と気付き、遅ればせながらハマってしまったという経緯があります。

今回は、劇団四季が初めて上演したディズニー作品「美女と野獣」について、その日本初演当時の思い出などを綴ってみます。

アニメ映画「美女と野獣」

1980年代、ディズニーのアニメ映画部門は長年低迷していましたが、1989年の「リトル・マーメイド」が大ヒットとなり、後に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれる時代が到来します。

アニメ映画「美女と野獣」は1991年の作品で、美しい映像や音楽が評価され、世界的な大ヒットとなります。アニメ映画として史上初となるアカデミー賞作品賞にもノミネートされました。

音楽を担当したのはアラン・メンケンさん。もともと「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」などのミュージカルを手掛けていた作曲家ですから、ミュージカル映画や舞台との親和性は高く、「リトル・マーメイド」に始まるディズニーとのタッグはその後も長年続くことになります。

そして作詞などを手掛けたのがハワード・アッシュマンさん。アラン・メンケンさんとは「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」からタッグを組んでいます。ディズニー作品では「リトル・マーメイド」「美女と野獣」「アラジン」の3作品を手掛けていますが、残念ながら1991年、「美女と野獣」の完成を前に、40歳の若さで逝去されました。

ハワード・アッシュマンさんの後を引き継ぎ、作詞を手掛けたのが、ティム・ライスさん先日の記事で書いた「ジーザス・クライスト=スーパースター」の作詞を担当された方です。ディズニーでは、ハワードさんから引き継いだ「美女と野獣」「アラジン」のほか、エルトン・ジョンさんとコンビを組んだ「ライオンキング」の作詞も手掛けています。

「美女と野獣」の舞台化

1993年、ディズニー・シアトリカル・プロダクションズ(DTP)が設立されます。批評家から「ミュージカルとして」絶賛されたアニメ映画「美女と野獣」を舞台化することになり、年末にヒューストンでトライアウト上演後、翌1994年には、ブロードウェイのパレス劇場で初演されます。

アニメ映画で数々のミュージカルシーンを作り、世界各国のテーマパークでも華麗なショーを展開してきたディズニーですが、ブロードウェイミュージカルを製作するのは、意外にも初の試みでした。

DTPが初めて製作した舞台「美女と野獣」は大ヒットとなり、ブロードウェイでは劇場を変えつつ2007年までのロングラン公演を達成します。このヒットを足掛かりに、舞台版「ライオンキング」「ノートルダムの鐘」「リトル・マーメイド」「アラジン」「アナと雪の女王」などの舞台作品を、立て続けに製作していくことになります。

「美女と野獣」劇団四季公演

その「美女と野獣」の日本における上演権を劇団四季が獲得し、1995年、東京と大阪で同時にロングラン公演を行うことが発表されました。東京と大阪にそれぞれ専用劇場を建てて上演するという、画期的なものでした。

「美女と野獣」は、ほぼヒットが約束された超大型コンテンツなので、日本でも上演を希望する企業の引き合いは多かったと聞きます。劇団四季には、それまで長年、日本各地でロングラン公演を多数手掛けてきた実績がありましたし、最終的には四季側が提案した「東西同時ロングラン」が、上演権獲得の決め手になったようです。

ひとつの劇団が、複数の劇場で同じ演目を上演するというのは前代未聞のことで、すでに四季の舞台を観るようになっていたわたしも大いに興奮しながら、新聞記事や「ラ・アルプ」(四季の会の会報誌)を読みあさったものです。当時インターネットは現在ほど一般的ではありませんでした。

東京公演は1995年11月24日、赤坂ミュージカル劇場(現・TBS赤坂ACTシアター)で、大阪公演は12月17日、MBS劇場(すでに取り壊され、跡地はホテルエルセラーン大阪と堂島プラザビル)で、それぞれ開幕しました。

日本初演のビースト(野獣)役

製作発表の際、ビースト役には山口祐一郎さん芥川英司さん(現・鈴木壮麻さん)がキャスティングされていました。山口さんは、当時発売された雑誌などの稽古場風景にも何度か登場していたのですが、初日を迎える前に劇団側と「何かあった」ようで、ほどなく退団されてしまいます。

ビースト役は、東京公演は芥川さん、大阪公演は荒川務さんがメインで演じることになります。当時のわたしは大阪に住んでいましたので、荒川さんのビーストを何度も観ていますが、本当に素敵なビーストでした。1幕ラストで、ベルへの想いを切々と歌い上げる「愛せぬならば」というナンバーがあるのですが、その絶唱が最高に好きでした。

荒川さんは13歳でアイドル歌手としてデビューし、第16回日本レコード大賞新人賞を受賞。1979年、劇団四季の「コーラスライン」オーディションで不合格となります。1980年にはミュージカル「ヘアー」で主演しますが、その後一念発起して単身ニューヨークへ渡り、なんと5年に及ぶダンス修行を経て、1985年、劇団四季のオーディションを再度受けて見事合格するのです。

それ以降、劇団四季俳優として「ウェストサイド物語」のリフ役、「クレイジー・フォー・ユー」のボビー役、「キャッツ」のラム・タム・タガー役マンカストラップ役など、多くの舞台に出演されました。2023年現在でも、かつて主役を演じた「クレイジー・フォー・ユー」でベラ・ザングラー役を演じるなど、名バイプレイヤーとしても活躍されています。

日本初演当時、TDRと四季の関係は希薄だった

日本で「美女と野獣」の公演がスタートしてから、何回かTDRへ遊びに行きましたが、どこにも「美女と野獣」の舞台についての案内等はなかったように記憶しています。(わたしが気付かなかっただけかもしれませんが)

舞台「美女と野獣」の日本公演については、劇団四季と米ディズニー(DTP)の契約であり、日本でTDRを運営しているオリエンタルランドとは特に関わりがなかったのですから(ちなみに米ディズニーとオリエンタルランドの間にも、資本関係はありません)、当然といえば当然ではありますが、観客からすれば同じディズニー作品なのに、何ひとつ触れられていないことには、どこか釈然としない気持ちはありました。

劇団四季は、1995年の「美女と野獣」を皮切りに、1998年に「ライオンキング」、2003年に「アイーダ」、2013年に「リトル・マーメイド」、2015年に「アラジン」、2016年に「ノートルダムの鐘」、2021年に「アナと雪の女王」と、近年は立て続けにディズニー作品を上演しています。

その間、1996年には映画「ノートルダムの鐘」の日本語吹き替え版を担当したり、2002年には映画「美女と野獣」のスペシャル・リミテッド・エディションが発売され、曲が作られながらも、映画本編では使われなかった「人間に戻りたい」のシーンが追加された際、舞台「美女と野獣」劇団四季公演の訳詞が使用されるなど、舞台のみならず映画との関わりもありました。

こうして30年近くもの間、劇団四季と米ディズニーは、親密な関係を醸成してきたわけですが、昨年ついに、オリエンタルランドが運営する舞浜アンフィシアターでロングラン公演されることになったのです。日本初演の頃から「美女と野獣」を観てきた四季ファンとしては感慨深いものがあります。

おわりに

今回は、ディズニーミュージカル「美女と野獣」について、日本で初演される前後のエピソードを中心に書いてみました。

わたしはこの作品を、大阪、福岡、名古屋、広島で、累計40回以上は観劇しています。ストーリーとしては非常にオーソドックスですが、そのため難しく考えなくても楽しめることに加えて、多彩なダンスシーン心に残るナンバーの数々野獣が王子に一瞬で変身する驚きのシーンなど、見せ場がたっぷりとありますので、特に初めてミュージカルを観るという方には、今でも強くおすすめする作品です。

現在はTDR内にある、舞浜アンフィシアターでロングラン上演中です。今回の公演では、オリジナル版で振付を担当されたマット・ウェストさんの手により、演出や振付が一新されていて、新ナンバー「チェンジ・イン・ミー」も追加されています。機会があれば、ぜひご鑑賞ください。

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