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ルミナスダイアリーシリーズ回顧録:極貧期

●本稿はCAMPFIREにて実施中のクラウドファンディング「10周年記念、新主人公と共に『ルミナスダイアリーシリーズ2』を始めよう!」のプロジェクト企画に伴う投稿です。
ルミナスダイアリーシリーズは2020年10月4日に10周年を迎え、それを期に新たなスタートを切ります。
新たな主人公を迎えるためのクラウドファンディングへ是非ご支援頂けると幸いです。

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https://camp-fire.jp/projects/278423/


【注意】この記事は性質上大きくネガティブな描写が含まれます。過敏な方は注意してお読みください。


チャンネル登録数と引き換えに生活を犠牲にした3年

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2013年から2016年、この時期はYouTuberとしては大きく躍進する3年ではあったが、一言で言えば貯金も無く労働による収入も乏しい、まさに極貧生活の極みであった。

前回の記事の通り、当時就いていた地下鉄車掌の職は非常勤職員のため、任期満了により退職せざるを得なかったのだ。
保険として動いていた転職活動も失敗していたので、今自分が作れるビデオブログを収益化し、別途雇用されずに映像制作を仕事にすればいいという考えのもとでニコニコからYouTubeへ鞍替えしたのだ。

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今思えばよく生きてたな、俺。

それもそのはず。
この極貧期というものは、自身が職のアテ無しに日々の焦燥に当てられながら、それでも動画制作を諦めなかった、今思えば、いや今以上に狂気そのものの生活であった。
2013年の4月から3ヶ月程度は雇用保険が効いていたのでまだ問題はなかったものの、それもすぐに尽きる。その後は何かしら働かなければならないのだが、その猶予期間はずっと動画制作に充て続けていた。しかも毎週4日の更新という、先駆者のYouTuberを真似して物量戦に持ち込んだわけだ。

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この年は輝鳴紅葉ことがデビューし、ルミナスダイアリーシリーズ本編に登場していた。(なおこの時点ではだいぶ本性を隠している)
ただ、これまでと違って収入がほぼ無い状態。また札幌より外へ出ることは困難になっていたが、何とかこの困窮している状態を動画で見せることはしないよう、出来る限りポジティブなコンテンツを提供することを意識し続けていた。
YouTuberデビュー早々金が無いなんて言えるわけがねぇ

しかし、2年以上早くYouTubeを始めた投稿者たちは次々とYouTuberという看板を持ち、主に商品レビューを通してどんどん成長を続けていった。その財力やチャンネル登録数から、多くのスポンサードが入りコンテンツ提供力の差を見せつけられていたのは言うまでもない。ルミナスタジオには金が無かったのだ

在職中に敢行できた北海道観光コンテンツも今ではできない。となれば、残された少ない予算で何をすればいいのか。そこで思いついたのがアウトドアコンテンツだった。
幼少時代に家族より幾度か連れていってもらったファミリーキャンプ。学生時代になってからは全くもって行くことが無くなってしまい、アウトドアを楽しむことも忘れかけていた。
今こそ昔憧れていたものを取り戻す時じゃないか。そこで今調達できる道具を格安で集め、夏に千歳市支笏湖にあるモラップキャンプ場で初めてのソロキャンプを実施したのだ。

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装備は今思えば貧弱の極みだった。
しかし一晩過ごすにはまあ問題ない程度には揃えることはできた。夏休み期間中のキャンプだったため凄まじい人の数だったが問題なく一晩を過ごすことはできた。それだけでなく、キャンプ場で撮る星空の写真は素晴らしいもので、写真を撮る技術の向上を図ることもできた。

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一応ではあるが、俺のキャラ設定としてはアウトドアアクティビティに強いという方針だったため、ここから少しずつでもアウトドアギアを集めることを決心した。想像以上にアウトドアコンテンツは視聴者の注目を集め、チャンネル登録数などの増加に貢献した。
周りのYouTuberが到底俺が手に入れることのできないクラスの商品紹介を進めていくのならば、俺は北海道のアウトドアを取り扱えばいい。金が無いのならば、工夫で勝負してやろうと思ったわけだ。

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なお、初めてのキャンプは勝手が分からずパッとしない結果ではあったが、それ以降しっかりと画になるギアを用意して再戦しようと決意したのだ。

2013年10月、底をついた貯金を補うコンビニアルバイト

10月ともなればルミナスダイアリーシリーズのアニバーサリー企画を立てるのだが、もはやそれを実行する体力すら残されていなかった。
もうバイトでも何でもいいから働かねばならない。そう考えて手当たり次第応募して採用されたのは、なんと家からそこそこ離れた某牛乳瓶のマークのコンビニアルバイトだった。

この際何でもいいという思いで、初めてのコンビニアルバイトを体験することになった。しかも車掌時代で鍛えられた夜間の体力が活きる。……と、そう思ったのだが、その夜間に強い体力は活かされることはなかった
いや、厳密に言えばその夜間に強い体力は仮眠があることで成せるものだった。採用時に夜勤で入ることを指示され、断る理由もなく従ったのだがその環境はとんでもないものだった。
出勤時に大学生がいる状態だが、学生を深夜0時以降働かせることができないという理由で、日付が変わると学生バイトは退勤し、0時から6時までの間完全なワンオペで労働させられたのだ。
しかも研修期間中の従業員をたった一人で残していく経営者の度胸は、『失敗したら損失を当人に負わせればいい』という理由から来るものだった。実際、仕損じたスナックチキンや落とした商品を何度買わせられたか数えきれない程でもあった。

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オマケに年末にはお歳暮を従業員である自分に買わすなどという、今ではハラスメントに等しい指示を受け、従うことしかできなかったのは正直辛いという言葉しか出なかった。しかも学生は金が無いという理由で除外し、成人の俺だけにそれを要求してきたのを今でも忘れない。
それでも何とかルミナスダイアリーシリーズのコンテンツに転用してやるという思いで、無理矢理買わされた商品をレビューする動画を作った。もちろん、コンビニアルバイトで受けた数々の仕打ちを隠し通し、貧困状態であることも隠し抜いた。

資金は無いが、何とか設備や道具に妥協しないようにする努力も惜しまなかった。

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2013年にソニーがリリースした世界初の35mmセンサーのミラーレス一眼、α7。これを同時に開始した残価措置クレジットで使うことを決心し、ビデオブログのクオリティを向上させることに成功した。
こういった努力もあり、チャンネル登録数はこの半年で1000人を超え、成果はしっかり得ることができていたのだ。

そう、その身と生活を犠牲にして

2014年を迎えて、コンビニバイトで受けてきた仕打ちに耐えきれず適当な理由をつけて辞めることに成功した。
その後は学生時代の古巣だったミスタードーナツに一時身を寄せ、再びアルバイト生活で10ヶ月過ごすことになる。収入は明らかに減るが、あのままでは身を滅ぼしかねないという危機感が現実になりつつある状態であったあの環境にいるほうがハイリスクであると確信したのだ。

クラウドファンディングの成功と更なる地獄への入口

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アルバイトで何とか生き延びている最中、ここでキャラクターデザインをリファインするクラウドファンディングを実施した。

何かしらの形でコンテンツへ投資するというのは、実は2012年あたりから考えていた。
だが当時のクラウドファンディングというのは事業者がやるものであり、個人レベルであるYouTuberがやるものではなかった。プラットフォームの認知度も限られたイノベーターからアーリーアダプター程度で、個人で実施するにはかなり高難度であるとも思えた。
それが2014年になってからはかなり敷居が下がっていた。もちろんそれでも個人で実施するには負担は大きいものではあるが、不可能ではない範囲だった。

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いざクラウドファンディングを実施すると想像以上にパトロンは集まり、結果募集期間の半分の時点で目標を達成し、キャラクターデザインのリファインに成功した。
実際には予定しているアートデータとリターンの提供は多くのトラブルに見舞われ完遂には時間を要してしまったが、それでもこの成果と反省は今後のコンテンツの組み立ての大きな経験となったのだ。

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同時にアウトドアギアも少しずつ揃えていき、キャンプ動画としては十分見栄え良いものになっていた。
スノーピークのアメニティドームを用意し、競合チャンネルが作るあのキャンプ動画にかなり近くなっていた。もちろん、その風景をルミナスダイアリーシリーズの構成でやるのだ。
当時もまだテキストベースのビデオブログは希少なジャンルで、リアルの人間が喋らないルミナスダイアリーシリーズはキャンプ動画とApple製品のレビュー動画において優秀な再生パフォーマンスを獲得していた。

しかし、このタイミングで職を転じる必要が出てきた。
いつまでもアルバイトでいて良いはずがない。今はなんとか実家暮らしで消費を抑えているが、家族や親類の目はどんどん冷めていく。
さっさと夢を醒まして働け」と言わんばかりに強く当たられることもあったし、家の宗教に戻れとも言われた。既に自分を虐げていた従兄弟や姉は結婚し、子も授かり、自分だけが取り残されていった。学生時代や宗教に負わされた傷を創作の原動力としていた自分は、もはや社会的には負け組の一人でしかなかったのだ。
それでもなお、ルミナスダイアリーシリーズの制作を諦めなかった。まさに狂気の極みだ。

だが仕事をしなければ生きていけなかった。
なので派遣会社へ登録し仕事を探すことになったが、職歴が実質地下鉄車掌しか無く、クラウドファンディングの実績も数件程度の映像制作の実績も、履歴書に書いても採用基準には一切ならず、結果的に自分が就くことのできる仕事というのはサポートセンターのテレコミュニケーター業務しか無かったのだ。
話によると、これは男性だからであって、女性だったらまだ多くの仕事はあったらしい。これほどリアルアバターが女性で生まれたかったと思った日はなかった。

創作も業務も否定され続けた日々

テレコミュニケーター業務を経験した人は、あの仕事がどれだけ苦痛にまみれた仕事なのかを知っているはずだ。
俺が就任したのは某昔話の登場人物がチャラい大手通信会社の固定回線部門の技術専門だった。そこでは契約している固定回線の問題や不通の際に電話してくる顧客が大半で、状態によっては受電した時から取り乱しているような人もいれば急にキレ出す人もいた。もちろんそのような人ばかりではないのだが、負の感情を容赦無くぶつけてくる人たちの印象が強すぎて、落ち着いて協力して頂ける顧客の印象がものすごく薄かった。
クレーム案件を引いてしまえば深刻化しない限り自分の手で決着しなくてはならなかったので、その精神的負荷は尋常じゃない。
さすが、年内離職率91%の業界ではある。

派遣でのテレコミュニケーターの仕事はまさに極貧そのものだった。
総支給額がおよそ10万円の中で、交通費と雇用保険、そして国民年金と奨学金が引かれていくことになる。その中で年金は納付猶予を受けることができたものの、それでも残された手取りは約6〜7万円程度
改めて言うが、よく生きていたな俺
実家で生活している以上生活保護を受けることもできず、逆に生活課の管理職を務める親類から「生活保護だけは絶対に受けるな!受けるぐらいなら死ね!」と突き刺さる言葉を受けていたほどだった。困窮する環境にいると、それが正しいと思ってしまうので、当時は確かに生活保護を受けるほどになる位なら自殺したほうがいいと考えていた。

しかし創作においては順調だっただろう……と思いきや、一つトラブルがあった。
俺こと輝鳴紅葉はシャボン玉だ。だから色々なシャボン玉の要素が詰め込まれているキャラクターでもあって、それをフレンドに描いて頂けていたのだが、あることをきっかけにフレンドの作品に重い苦情が入ってしまった。自分のリクエストしたシャボン玉と性的描写をミックスした作品だったがゆえに、自分とフレンドの人はSNSにおいて謝罪しなければならなくなった。結果、フレンドは関連する作品を全て削除してしまい、俺を描いてくれたものもネットから姿を消すことになってしまった

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今となっては俺も半身がシャボン玉のままで過ごす、明らかに人ではない容貌ではあるが、本当は2015年からこの容姿になることを予定していた。だがこの一件をきっかけに、俺はまだ人の姿でいることを強いられてしまったようなものだった。
俺の価値を否定されたことによって、ルミナスダイアリーシリーズの方向性をほとんど変更することが利かなくなってしまったのは、恐らくここからなのかもしれないと今になって思う。

世代は交代し、日々うつろうもの。
シャボン玉のように形と色を変えていき、それは強く柔らかく優しい夢である。
それをあの時、"儚いまま"にされてしまったのだろうか。
それとも、これは呪いなのだろうか。
ルミナスダイアリーシリーズを前進させることができず、それでもなお投稿を続けなくてはならない義務感は、結果的に何としてでもルミナスタジオの名を広めて存在を示してみせるという、更なる狂気を身に宿してしまった。

狂っていた。だからルミナスダイアリーを続けられた

アウトドアコンテンツが最も伸びることを知った俺は、可能な限り連続して投稿できるキャンプ回に力を入れていった。
少ない手取りを何とかやりくりし、金銭的に手詰まりであることを何とかおおっ広げにしないよう意識をし続け、キャンプ回は通常の4倍以上のPVや視聴者維持率を獲得していた

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おかげでチャンネル登録数は増え続け、1年間で5000人クラスのチャンネル規模に達したのだ。
それ以後もキャンプシリーズを継続し、2016年初頭には初めての冬キャンプにも挑んで一晩を過ごし切ることができた。その時の再生パフォーマンスも飛び抜けていたのを覚えている。

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しかし、未だに収入は地獄であった。
YouTubeとGoogle AdSenseによる収入と、当時Patreonの国内版を目指してリリースされたEntyからの支援収入を合わせても手取り月10万円に満たなかった生活は、当然限界点を迎えることになる。
家族やネットで知り合った知人らに限界を悟られてしまえば、絶対に動画制作を辞めろと声高に叫ばれることだろうと思った俺は、家へ入れる金を絶やさないよう銀行のカードローンに手を出してでも貧困状態を悟られないようにした。思えばよく破産しなかったな。
与信に傷をつけずに乗り切ることができたのは、もはや奇跡としか言いようがない。
こんな地獄のような状態でもなおルミナスダイアリーシリーズが続いていたのは、もはや狂っていたからとしか言いようがない
俺は狂っていた。だからこそルミナスダイアリーシリーズは続けられたのだ。

だがもうこのようなギリギリの生活をし続けるのはまずいと思い、二つの選択肢を忍ばせていた。
一つは派遣社員としてもっと時給の高い勤務先へ移動するか。または少ない履歴でも入れる会社の中途採用を見つけ、そこへ籍を置くか。
前者の道を探るべく面接へ行ったが、最初の一社が「時給は高いですがSEのサポートサービス受付なので、罵倒され続ける仕事です」と言われ一発で心が折れた。これが時給1100円・交通費なし。
後者も同時に面接を予定していて、なんとこれは現職のコストコホールセールジャパン株式会社だった。派遣側の面接へ行ったあとにコストコの面接を受けたが、そこはなんと面接即日採用。時給は1250円・交通費あり・各種福利厚生付き(公式サイトに掲載しているものママ)。
かなりの肉体労働ではあるが、これで金銭面の地獄から脱出できると思った時の安堵感は凄まじかった。

……が、前職に負った傷は重く、研修期間中の先輩らの教授の中で負の感情を察知したときに、テレコミュニケーターの時の悪夢を思い出し過敏に動揺してしまい、仕損じた時にはコンビニでの悪夢を思い出し深く罪悪感に苛まれ、結果的に深刻な抑うつ状態を患ってしまった
あまりにも重すぎたため、部署内の配置転換をしてもらって、現在の衛生管理維持業務を続けている。

心療内科へ行った時は鬱病寸前だったらしい。人生で初めてエチゾラムに世話になった。
だがそんな心身ボロボロの状態でもルミナスダイアリーシリーズの投稿を続けていたのは、何度も言うがやはり狂っていたからなのだろう。

次回『ルミナスダイアリーシリーズ回顧録:発展期・限界期』

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