私と二人のお父さん

こんばんは

今日は私とお父さんについてお話ししたいと思います。

私は6歳の頃に両親が離婚をし、当時住んでいた岡山から東京へ引っ越したため20年くらい実父に会う事はできませんでした。

小学生の頃には、母から父と離婚した理由や父親がどんな人だったか聞くこともありました。
お父さんは大きくて、良く私がお腹の上に乗ってトトロとメイちゃんの真似してたことや、お父さんは優しくて人当たりの良い人だったこと。

しかし、お父さんの借金や宗教的にお父さんの実家との軋轢があったということで良い印象は少なく与えられていました。

何度か私の誕生日に電話が来たことがあって、そのたびにお父さんの声をきくと、一度でいいから会ってみたいなと思うようになりました。
本当に貧しい生活でしたし、なんでこんな大変な思いまでしてお母さんはお父さんと別れたのだろうか、、、。

本当にお父さんはそんな悪い人なのか。
離れていても私のお父さんはお父さんだよな。。。

いつか自分で会って確かめたい気持ちは、明確な目標になり、大人になったら必ず会いに行くと自分に誓いました。

中学、高校とお父さんから電話が来る事は無くなってしまいました。

その頃から年賀状を自分でかけるようになったので、自分はおばあちゃんに毎年年賀状を出すようになりました。

そして、ある日お父さんが行方不明になってしまったことを知ります。

とても心配になりました。

数年が経ち、おばあちゃんから電話でお父さんが帰ってきたよ!と嬉々とした声がすごく嬉しかったのを覚えています。それから久しぶりにお父さんの声を聞いた時はなんとも言えない感情が込み上げてきました。

私は当時子供を産んで家族と暮らし始めていましたが、単身大阪へ行く機会があったので、そこでお父さんと会う約束をしました。

会えなくなってから20年。

念願叶って大阪の地で再開を果たしました。

おばあちゃんも一緒に岡山から来てくれました。父の姿は写真で見ていた頃より痩せて年老いていましたが、笑顔や声は私の知っている明るいお父さんでした。
数時間の再開でしたが、お父さんと大阪城へ行ったり、お父さんが美味しいよ!とおすすめしてくれた堺のお寿司屋さんに連れていってもらいました。
帰りの新大阪駅では、串揚げ屋さんで一緒にお酒を飲みながら私の幼かった頃の話をしてくれました。

父「Lumiはなぁ、小さい頃からすごい優しい子だったよ。お父さん忘れられん事があってな、保育園の運動会だったなぁ。
かけっこで一番速く走っとったのに、男の子がこけてしまったのをみて、Lumiはその子を待って一緒にゴールしてあげたんだよ。」


その話を聞いて私はもう涙が止まらなくなりました。

母からは自分の幼い頃の様子についての詳細はあまり聞いたことはなく、むしろ岡山でのお母さんの辛かった日々が印象的で、さぞ自分も辛かったのかなぁと思っていました。

それだけ、母は日々の生活に必死だったのだと今はわかりますが、、、。

それでもニコニコとお父さんが話してくれる私の話はとても嬉しかったです。

そして、父はとても人当たりのよい努力家だったのだと思いました。
借金を背負ってしまったのも、当時勤めていた会社が倒産し、社長の連帯保証人として返済を引き受けたこと。
行方不明になったのも、お父さんがおばあちゃん達に迷惑をかけないように1人で会社をはじめてコツコツと香川で働き、借金を完済したこと。
今はおばあちゃんと二人で暮らしている事。
この時いろいろな話をお父さんから聞けたことは本当によかったと思います。

お母さん側だけじゃなく、お父さんからの話どちらもきいて、どうしてお母さんが離婚せざるえなかったのか、、、

お父さんは苦労かけてごめんなとも言ってくれて、お母さんにもすまなかったなと言っていました。

また再会することを約束し、私は新大阪から帰路に着きました。

それからはお父さんとLINEするようになり、お互いの体調や娘の写真を送ったりするようになります。

大阪での再会から1年ほど経った頃、お父さんが出張で東京に来る用事があるので一緒にご飯を食べようという話になりました。

私は体調を崩して、旦那さんの実家でお世話になっていたため、近所のレストランで食事をすることに。

私の娘と父が初めて会い、父は自分の孫を嬉しそうに抱きしめていました。
しかし様子が少しおかしいのです。
前はたくさん食べていたのに、全然食事を取らず、顔色も悪く頬は痩せこけていました。
どうかしたの?と聞くと、最近体調が良くないんだよね。としか話してくれませんでした。
食後はお世話になっている義父とも会う事ができ、父と義父はいつか一緒に飲みましょうね。と約束を交わしていました。

これがお父さんとの最後の再会になるとは思いませんでした。

4ヶ月後、父は癌で亡くなったとおばあちゃんから訃報がありました。

突然のことに目から涙が止まらず、私はしばらく塞ぎ込んでしまいます。

体調が悪かったのも、本当はもう末期にまで癌が進行していたためで、仕事の出張といいつつ、お別れをしに会いに来てくれたんだなと思いました。
母にも連絡すると、お父さんから直接電話で話しを聞いていたそうで、私には癌になってしまったことを伝えないように口止めされていたそうで、最後まで心配をかけないようにするお父さんの優しさにいつまでも涙が止まりませんでした。

もっともっとお父さんの話が聞きたかったなというのが心残りですが、でも会いにいって本当に良かったと、何か運命のようなものを感じました。

もう一人の父についてもお話しさせてください。

私は精神的に体調も崩しており、満足に育児ができない中、義父がとてもサポートしてくれていました。
会社も定年退職された義父は、旦那さんが幼い頃に奥様を亡くされて一人で息子2人を育ててきたとても立派な方で、家事などや料理もとても上手で多くのことを学ばせていただいています。
私の実父に会いに行く時も娘を預かってくれるなど、全面的にサポートしてくれ、本当に懐も広い紳士な義父に何度も助けられています。

実父が亡くなった後も、私のことを支えてくれたのは義父でした。
離婚した後も、ひとりでの育児の大変さを理解してくれ、たくさん助けていただいて、感謝しかありません。

離婚してからも義父のことを自分の父のように慕うのはおかしいかもしれませんが、それでも私にとってのもう一人の大切なお父さんであることは間違いないと思うし、元旦那さんにも離婚の際には娘との面会を制限しないようにしたり、積極的に義父と遊べるように、実家には戻らず、娘と二人で暮らすことにしています。

私にとって実の父親との時間は短く、貧しい生活で恨んだ時期もあれど、それでもお母さんの言葉を鵜呑みにせず、自分で真実を確かめに行ったことや、お父さんの存在を会えなくなっても感じて過ごせたことでお父さんへのありがとうという気持ちを持てるようになったのかなぁと今は思います。
義父も大切にできるようになったのも、お父さんのおかげだと思うし、最後に孫に会えてお父さんも幸せだったかなぁと思います。

長くなりましたが、読んでくださりありがとうございます。

最後に父と幼い頃の私です

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