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撮影動機。

…写真というメディアを使って「アートしよう」「創作しよう」という意識は無いんです。
ただただ、自分が「見ている」風景を、写真を使って再現することに拘っている。
それが快感であり、撮影の動機です。

ある人に「覗き見」と言われた事があります。
憤慨しましたが、後で考えたらその通りで、言い得て妙です。
まさに「自分が見た」心象の再現なのですから。

逆に言えば
「何だ、伝わってるじゃないか?」
…ということでもあります。

私、というものが見た風景は、それが例え公共の場であっても、私の中に入った時点で「私物化」されます。
覗き見とは、私的な(個人的な)行いを、相手に気付かれぬ様にしながら観察し、秘匿する行為です。

つまり「公共性の無い行為」であって、それ故に発表も憚られるし、罪にもなります。
また、明らかに一方通行の関係性でもあり、観察者と対象の間には、共感というものも有り得ません。

それは生理的に不快に感じられる場合もあります。
例えそれが他者であっても、立場を自分に置き換えたなら、やはり不快でしょう。

故に嫌われても致し方ないわけです。
ただし、私の撮影に関して言えば、写真として再現しているのは「私の心象」でしかなく、他者のそれではありません。

私は、自分の心象を再現することで、共感をおぼえる方々と繋がる事が可能なのではないかと思っています。
言葉の無い会話であり、原初的なコミュニケーションかも知れません。
写真には、唯一その「機能」があり、動画等では崩れてしまうような、プリミティブな魅力があると思うのです。

モノクロが多いことも、その理由のひとつです。
色の情報が入りすぎてしまうと、引き摺られてしまい、肝心な部分がボヤけてしまいがちです。
色を無くすことで整理がしやすくなるのです。

この年齢になり、ようやく写真が面白いと感じられるようになりました。
撮り続けてきて良かったなと、しみじみ思う今日この頃です。




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