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空間が好きなんです。

…自分が撮りたいモノを、具体的に他人に伝える事は少しだけ難しい。

例えば、旅先で出会った猫がいるとする。
動物は好きなので近寄って触ってみたりする。
カメラを持っていれば撮影するかもだけど…しないかもしれない。
撮影が理由で猫と触れあっている訳じゃなく、単に可愛いと思うからだ。

簡単に言えば「好き」ってこと。
この「好き」が、撮影の原動力。
これはどの分野、被写体でも変わり無いだろうと思う。

私の場合、被写体も色々有るけれど、一番心惹かれるのは「空間」なんです。

昔「トマソン写真」という活動が流行った時期があって「一見役立たないモノ」「存在理由が不明確なモノ」を撮影し、公表するという運動(活動)が行われていました。
その写真群を見て、ビビっ!!と来たというか、心の奥深く眠り続けてた感情が揺り動かされたんですね。

思えば子供の頃からそのキライは有って、狭い路地が怖くも好きであったり、逆にただ何もない荒野のような場所や、廃鉱山のような場所が好きでした。
これは今でも全く変わりなく、多分生涯同じと思います。

生と死、光と影…両極が混在し成立する風景。
現在の中に滲み出してくる過去。
滅茶苦茶なのに、何故か統一されている風景。
そういったものが目の前に在る時、それにレンズを向ける自分に気づき、妙な可笑しさを感じながらも撮影をしてきた訳ですが…トマソンというものがメジャーになり、現代美術家や小説家、建築学の先生等が街角にカメラを持って立つのを見たとき、そこに大きなシンパシーを初めて感じたのです。

厳密に言えば、私は運動という見地立地で撮影して来たのではなく、あくまでも「興味対象を撮影する」事に快感を感じてきたクチですから、それはもっとプライベートなものでした。
発表を常とする運動というモノは、どうしてもパブリックな場所に存在していないといけない使命があるわけですが、私のはそういったものとは無縁だということです。

あくまでも「好き」という、それだけ。
頼りが無い故に不安定でしたが…過去の写真家たちの作品群が、その不安を支えてくれました。
だから今でも同じように撮っています。



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